高木彬光 顔のない女 目 次  暗黒街の帝王  暗黒街の逆襲  顔のない女  蛇 魂  女を探せ  暗黒街の帝王     一  アンコールが終わり、楽団の一人一人が舞台を去ってライトも消えると、人々は名残り惜しげに席を立って幾つかの出口から潮のように外へ流れ出した。  H公会堂で行なわれた来日管絃楽団の演奏会の夜のことである。  私立探偵|川島竜子《かわしまたつこ》も、その聴衆の一人であった。耳の中にまだ去りもやまずに残っているメロデイを口ずさみながら、中央階段をおりようとしていたところを、ぽんと軽く後から肩をたたいて来た男があった。 「あら、あんたもこんな所へ来るの?」  竜子はふり返ってびっくりした。ダブルの背広をりゅうと身につけた大前田英策《おおまえだえいさく》が、唇のあたりにかすかな笑いを浮かべて立っていたのである。 「姫御前《ひめごぜん》、相かわらず口が悪いな。あんたもこんな所にというせりふはないだろう?」 「びっくりしたのよ。あなたがこうした古典音楽に趣味を持っているなんて。どうせ五代目のことだから、浪曲大会であったというのなら、こんなに驚かないけどさ」 「ははははは、こっちの五代前の御先祖は、清水次郎長《しみずのじろちよう》や国定忠治《くにさだちゆうじ》と違ってあんまり講談や浪花節《なにわぶし》の材料にはなっていないんでね。御先祖の名前が出て来るのは、みんな誰《だれ》かのひき立て役で、くすぐったくてくしゃみが出る。ところで一杯どうだね?」 「つきあうわ」  仕事の始まるまではまだ間があった。竜子は頭の中であれやこれやと今夜の作戦をたてながら、H公園の中を英策と肩をならべて歩き出した。  もともと川島竜子というのは、九州の炭鉱主の娘に生まれて、三十にもならぬうちに未亡人となり、お嫁の口は箒《ほうき》で掃いて捨てるほどあるのに、親兄弟の言葉をふりきって、女だてらにこうした私立探偵など開業したくらいだから、一通りや二通りの変わり者ではないはずだが、それでもこの大前田英策には面くらったのだ。  御同様、私立探偵を開業して、剛毅《ごうき》果断、竹を割ったような性格だが、自分では幕末にその侠名《きようめい》をうたわれた関東一の大親分、大前田|英五郎《えいごろう》の五代目だと名のっている。  本当か嘘《うそ》か分らないので、意地になってお手の物の調査をさせて見ると、たしかにその言葉にも掛値はない。一応敬意は表したものの、何となくこの御先祖が気になって、それからあうたびに、必ず悪口が飛び出すのは、やはりM過剰と自称する竜子持前の負けず嫌《ぎら》いな性格からだろう。 「どうだい。この間警視庁の松隈《まつくま》警部補に出あったら、君もそろそろこの辺で足を洗ってお嫁に行ったらどうだといってたよ。僕から何度口を酸《す》っぱくしていってもききめがないから、大前田君、君からもよくいいきかせてやって欲しいということだったぜ」 「大きなお世話よ。あなたなんか、わたしのすることに、これっぽちも指図する権利はないわよ。そうそう、この間ある貸元にあったらいっていたけれど、大前田の五代目は私立探偵なんかさせておくのは惜しいものだ。早く足を洗ってやくざの道にもどれば、てら銭だけで食うのには不自由しないからと、伝言しておいてくれということだったわ」 「ははははは、おたがいに人の頭の蠅《はえ》は追わない方がよさそうだな」  英策は大きく体をゆすって笑った。有楽町駅の近くの小さな酒場に入ると、ハイボールのコップを二つとりよせて、 「シャロック・ホームズ以来の伝統を持つ、われわれの光栄ある職業のために乾杯しよう」 「本当に、光栄ある——と思っているの?」  コップを手にしたまま竜子はちょっと眉《まゆ》をひそめた。 「おや、君は自分の職業に誇りを感じていないのかい? それじゃあ何だって、こんな商売に飛びこんだんだい?」 「退屈だからよ。スリルを味わいたいからよ。わたしは千人の中の一人、天才とは敢《あえ》ていわないけれど、それだけ珍しい変わりだねなのね。M百パーセントでWはゼロ、結婚して、男に服従して、お料理を作ってお掃除をして、子供を産んでおしめを洗って、おおいやだ。考えただけでも身ぶるいが来るわ」 「おしめを洗うのがいやなら、電気|洗濯《せんたく》機という便利なものがある」 「あんた、いつから電気器具屋の外交員になったのよ。そんなこと、いわれなくたって、おわかりだわよ」  まるでだだっ子のように、一息にハイボールをあおった竜子の顔を見つめて、英策は、 「考えてみれば、君は気の毒な身の上だな」  とあやすようにいった。 「どうしてなのよ。わたしは結構、今の生活に満足してんのよ。あなたなんかに妙な同情をしてもらうことなんかないわ」 「満足しているというのはどうかねえ。人前じゃあそうして意地をはり通しているけれど、案外夜一人になって見ると、淋《さび》しくてたまらないんじゃないのかねえ」 「くたびれますので、夜は床につくと同時に白河夜舟《しらかわよふね》、睡眠剤の必要はございません」 「そう切口上になるなよ。まるでテレビの宣伝みたいだ。それで今晩の予定は?」  竜子は腕時計を眺めながら、 「そろそろお時間でございます。スリル百パーセントの冒険がこれから始まりますので」  と腰を浮かした。 「行先は新橋だね。駅までいっしょに行こう」 「あら、どうしてそれを知ってんの?」 「君の顔に『新橋行』と書いてある」  英策はまるで竜子の今夜の予定を知っているように、先に立って店を出ると、竜子の一、二歩先を歩いて新橋の駅までやって来た。  すると、どう勘ちがいしたのか、一人の山出しらしい男がよって来て、英策に、 「旦那《だんな》、実は時計屋につとめてたんですが、その店をくびになって、田舎《いなか》へ帰る旅費がないんで」  と手首の腕時計をちらりとのぞかせた。 「君はどこの身内だい?」 「え……」 「勝田《かつた》君によろしくいっておいてくれよ」 「へえ、親分、どうもお見それいたして申しわけございません」  その男は急にぺこぺこ頭を下げて逃げ出した。竜子もすっかり感心して、 「あなた、なかなかやるわね。ところで勝田という人、だれ?」 「こういう所で、動かない時計を売りつけるその贋物《にせもの》のおろし問屋さ」     二  いつの間にか、竜子は男姿になって、新橋近くのナイトクラブ『ブロードウエイ』のテーブルに坐っていた。頭はいつも男刈りだし、胸はさらしでぴっちりしめつけてある。ことに照明が暗いから、誰も彼女を女だと見やぶる者はあるまいと思われた。大前田英策の態度がいつになくしつこいので一旦《いつたん》新橋駅前で車を拾うと事務所に帰り、変装して出直して来たのだ。  今夜の冒険——それはたしかに、千一夜物語の中の一つの挿話のように変わって珍しいものだった。竜子はここへ、船乗りシンドバットという、アラビアン・ナイトの登場人物を探しにやって来たのだ。  事件の始まりは三日前、竜子の事務所へ村田康子《むらたやすこ》という十六、七のかわいい娘がたずねて来たことから起こったのだ。 「先生、実はとんだお願いがあって上がりましたんですけれど……」  竜子が用件をたずねると、その少女はおどおどしながら切り出した。 「こんな妙な手紙がとどいたんです。誰かの悪戯《いたずら》かも知れませんけれど、何となく気になって、それであるお方へ相談したら、先生のお名前をおっしゃって、ここへたずねて行ったら——ということだったもんですから」 「その手紙というと?」 「これなんですの!」  と康子のさし出した手紙を見て、竜子も思わず胸をわななかせた。ただの悪戯とは思えない。何かある。何かの秘密がこの手紙の裏にひそんでいるのだ——とその心にささやく声があったのだ。 「村田康子様。  あなたは幸福をお望みではありませんか。山の彼方《かなた》に住むという、万人が万人まで求めて得られぬ幸福の青い鳥が、いまあなたの手の中に舞いおりようとしています。この機会を逃がして一生後悔なさるようなことがあってはいけません。決断、勇気——それが幸運をつかむためのただ一つの条件なのです。  五月十日の夜十時、新橋のナイトクラブ『ブロードウエイ』においで下さい。あなたのお名前でテーブルは予約してあります。お金の心配は一切不要です。  そこへいらっしゃったら『船乗りシンドバット』という人物があらわれるでしょう。その人物があなたに予想も出来ないような幸運をもたらす使者なのです。それがどういう人物なのか、私はいま申し上げる自由を持ちませんが、あなたのお体に何の危険もないことは、私が責任を持って保証いたします。  なお、それでも御心配ならば、あなたの信用出来るお友達を一人おつれ下さっても差支えありません。ただ専門の警察官だけはおことわりいたします。     シェヘラサーデ  実に奇妙な手紙だった。実に奇妙な署名なのだ。シェヘラサーデといえば千一夜物語の語り手——唐草《からくさ》模様のように異様な変化に満ち、夢幻の境に遊ぶような毎夜の物語を続けて自分を処刑の運命から救ったという美しい王妃。そしてシンドバットといえば、その話の中でも最も異色に富んだ主人公…… 「あなたはこの通りになさるおつもり?」  手紙をおいて竜子はたずねた。 「まだ、どうしたらいいか分りませんの。ナイトクラブなんて生まれて初めてですもの。先生がよろしいとおっしゃったら行って見たいような気もしますわ」  康子は夢見るように答えた。まだこの世の汚れも恐ろしさも知らぬ処女だけが持つ眼の色を、竜子は一種の羨望《せんぼう》と一種の不安のまじった気持で見つめていた。 「おいでになったらどうかしら?」  学校で習った修身の講義など、竜子はどこかへ置き忘れてしまっていた。自分でも実行出来そうにない窮屈な教訓を他人に押売りするには竜子はまだ年が若すぎた。 「行って見てもよろしいんですの?」 「おいでなさいよ。ただ、そうね。やっぱり向うのいう通り護衛を一人つれて行くのね。わたしの友達に岡村《おかむら》という柔道三段の豪傑がいるわ。その人に万事を頼めば大丈夫。わたしもべつに行ってかげながら見はっていてあげるから大船に乗ったつもりでいらっしゃいよ」  そういった会話の一つ一つと、父親一人子供一人で暮らしている康子の子供子供した態度を、竜子はグラスのカクテルをすすりながら思い出していた。 「奥様、一つダンスのお相手を願えませんか」  と後からささやいた声がある。竜子が柳眉《りゆうび》をさかだててふりかえると、そこには大前田英策が、苦味走った微笑を浮かべて立っていた。 「まあ、あんたっていう人は!」 「尾行は商売柄名人だ。君の変装を見やぶるぐらいは朝飯前の芸当だ」  といって悠々《ゆうゆう》、竜子の前の椅子《いす》に腰をおろすと、 「ところで誰をお待ちだね?」 「職業上の秘密で、ノー・コメント」 「なるほどお口のおかたいことで。船乗りシンドバットをお待ちだとはいわないね」  竜子は椅子からとび上がらんばかりに、 「あれ、みんなあなたの悪戯なの?」 「そうじゃない」  英策の言葉は沈痛なくらいの重さを加えた。 「初めあの子は僕の所へ来たんだ。僕があの子のつとめ先を知っているからなんだ。自分でのり出そうとも思ったが、ふいとその時、君のことを思い出してねえ。君の退屈しのぎにはちょうどころあいの事件だろうと、そっちへ向けてやったんだ。御同業仲間の仁義でねえ。ところが今朝になって、いけない。妙な胸さわぎがして来たんだ。あわてて君の行方をたしかめ、ダフ屋を顔でおどしつけて闇《やみ》の切符を元値で買って……」 「ああそう。それでお門違いの音楽会なんかに、あなたの顔を出していたわけがどうにか呑《の》みこめたわ」 「ところがああして偶然あったような顔をして、あのバーで飲んでいるうちにいよいよ心配になって来たんだ。これは危い。この事件を君があつかったら、とんだ目にあうだろうと思ってね。どうだ。この後はおとなしく僕にまかせてひき下がらないか」 「いやよ。あなたにそんなこといわれておめおめひき下がったんじゃ、こっちの名前がすたるわ。危い事件ほどスリルがあって面白いわよ。平凡きわまる身の上調査や、結婚の興信所商売にはあきあきしたわ」  少しヒステリー気味な調子でこういうと、竜子は英策に背をむけて、お客の顔の物色をはじめた。  外人と日本人が半々ぐらい。ホールではいまライトを浴びて外人の歌手が歌っている。ここが東京の真中かと思わず錯覚を起こすような、奇妙な異国的光景だった。  康子と用心棒の岡村が入って来たのはこの瞬間だった。かわいい、清楚《せいそ》な感じのする娘なのだ。が、やはりこうした場所の雰囲気《ふんいき》にはそぐわない。割合近くの予約してあるテーブルに腰をおろすと、こっちを見てむりに微笑して見せたが、やはり作ったような笑いだった。  さて、船乗りシンドバットの登場は?  四人の人間が固唾《かたず》をのんで待つことしばし、一人のボーイがむこうのテーブルに近づいて、康子の耳に何かをささやき、かなりの大きさを持つ包みをわたした。  康子は立ってこちらのテーブルに近づくと、英策と竜子のどちらにいうともなく、 「先生! シンドバットは来ないんですって」 「何だって!」 「何か事情があって来られない。そのかわりにこれをお土産《みやげ》にといって、さっきお使いの人が来たんですって」  英策と竜子と康子は顔を見あわせ、しばらく三すくみのようにだまっていた。 「何かしら?」  包みの方へぐっとのばした竜子の手をおさえて、 「待ちたまえ。ここで開けない方がいい」  英策はボーイに自分の名刺をわたし、支配人室へ案内させた。 「やっぱり顔ねえ」  支配人が畏《かしこ》まって部屋を明けわたすのを見て、竜子は感心したようにいったが、英策はだまって鋭い視線を包みの上にそそいでいる。 「さあ、目は丁《ちよう》、それとも半?」  英策は初めてポケットからナイフをとり出すと、その包みの紐《ひも》をずたずたに切りほどいた。厚い包装紙の下には無造作《むぞうさ》に新聞紙にくるまれた千円札の束がある。 「百万円! これがシンドバットの贈物?」  その束の厚さと数を目で読んで、竜子も呆《あき》れたような声をもらした。  英策はその札束の上にのっている紫色のケースをとりあげて蓋《ふた》を開けたが、 「プラス・アルファ——こっちの方が何倍かの値打がある」  とそのままそっと机の上においた。  鳩《はと》の卵ぐらいの大きさの紅玉を中心に、無数のダイヤをあしらった首飾り——なるほどこれが本物ならば、どれだけの値打のものか分らないのだ。 「まあ、すてき! これがわたしのものなのかしら」  常識も何も忘れてしまったのだろう。女としての本能が一瞬に爆発したのだろう。康子はその首飾りをとりあげると服の前につけ、鏡にむかった王女のようにあどけなく笑った。  英策はかすかに溜息《ためいき》をもらしながら、 「法律的には任意の贈与だから、たとえその贈り手がシンドバットだろうが誰だろうが、この金も宝石も当然康子さんのものになるはずだ。但し……」 「但し、何ですの?」 「但し犯罪に関係がなければ——僕の勘に間違いがなかったら、この宝石は昨夜起こったある殺人事件と関係を持っているはずだが、いや、はっきりいうと殺人の現場から盗み去られた品物じゃないかと思うのだが」 「マダム・トツカ!」  竜子の叫ぶような答えに英策は鋭く、 「その通り、御名答」  康子はぽたりと首飾りを机の上に落とした。血に染められたように赤い紅玉の光だった。     三  日本占領史の裏におどって、歴史を夜作った女性として、戸塚綾絵《とつかあやえ》の名はあまりにも有名である。  今ではもう過去の物語となってしまったが、終戦直後は、英会話の才能一つがまるですべてを支配する万能のようにさえ思われたことがある。総司令部高官の鼻息一つで、どんな大臣の首でも簡単にふっ飛んだ時代に、この美貌《びぼう》の才媛《さいえん》、戸塚綾絵がどのような役割を果たしたか——それは今でもまだ深い秘密の幕におおわれている。  ただ、当時から、正面切っての交渉ではどうしてもうまく行かない難問題でも、彼女の口を通しさえすれば、何とかうまく運ぶという伝説があった。彼女の口ぞえで政界財界から追放をまぬかれた大物が何人あったとか、どの会社が解体をまぬかれたとか、どういう取引が成立したとか、そういう噂《うわさ》を数えあげれば、それこそ枚挙《まいきよ》に暇《いとま》もない。  伯爵の娘に生まれ、伯爵に嫁《とつ》ぎ、そして戦時中に夫に死に別れて未亡人となった綾絵は終戦当時には、まだ三十の女ざかりだった。五か国語を話し分けるというその才能と、美貌と品位と、天の幾つかの賜物《たまもの》が彼女を当時の社交界の女王とした。生涯《しようがい》の輝ける日々を作ったのはむしろ当然のことであった。  ただ、そのような魔力も占領政治の終結と同時に、影も残さず消えてしまった。光が強ければ闇も濃いというたとえのように、講和条約の締結と同時に、その栄光も終わったのだ。  豪華な邸宅ももとのまま、華美な生活ももとのまま、しかしその美貌にも何となく暗い影がただよいはじめ、その周囲をめぐる人々も、何となく疑惑に満ちた人物ばかりになって来た。  その収入の源は、税務署がどんなに調査して見ても発見出来なかった。ある新聞社は彼女の醜聞を探ろうとして、綿密な調査を続けたが、それも依然として秘密のままだった。  その戸塚夫人が、無惨な絞殺死体となって自家用車の中で発見されたのだから、各新聞社が湧《わ》き返ったのも無理はない。身についたアメリカ流の習慣から、いつでも車は自分で運転して出かけるのだが、その車は赤羽の荒川放水路の近く、人目にかからぬような場所で発見され、その運転台に冷たくなっていた夫人の死体は今朝になって発見されたのだった。  家を出たのは午後四時ごろ。どこへ行くともいわなかったし、また外泊することもしょっちゅうだったので、家人もべつに不思議にも思わなかったというのだが、警察からの知らせであわててかけつけて、首飾りをはじめ身につけていた宝石類が、残らず持ち去られていたことが分ったのである。  ほとんど盛装といいたいほどの恰好《かつこう》で、彼女が単身こんな淋しい場所まで車を飛ばして来るというのは考えられないことだった。どこかで殺され、ここまで車で運んで来られたのだろうという意見が警視庁でも大勢をしめた。  殺人そのものは昨夜行なわれたとしても、発見は今朝のことだから、新聞記事となったのは今日の夕刊がやっとだし、音楽会やその後の冒険に気をとられすぎて、新聞にはぱらぱらと眼を通しただけの竜子が、この宝石とこの事件とを結びつけられなかったのもむりのないことだった。その隙《すき》をずばりと英策につかれてぎくりとしたのも当然のことだった。  とにかくそのままにはしておけないので、警視庁に電話をかけると、顔見知りの松隈警部補が飛んで来た。 「おや、これはどういう風の吹きまわしかね。君たち二人は犬猿《けんえん》もただならぬ仲だと思っていたのに、呉越同舟《ごえつどうしゆう》、すこぶるおむつまじい恰好だな」  初めは冗談めかしていたが、話を聞いているうちに急に真剣な表情になって、 「それはいったい本当か。君たち二人よってたかって、僕をかつごうとしてるんじゃあるまいな。たしかにこの札の方は本物らしいが」  英策は首飾りをコップの中に入れ、水を注いですかして見ていたが、 「この宝石も本物だな」  警部補は首をかしげて猛牛のように唸《うな》った。 「信じられん。まるでお伽話《とぎばなし》の中に出て来るような話だ。アラビアン・ナイトの夢物語だ。そりゃあこっちの方だけなら、二十世紀の神話とでもかたづけられるだろうが、一方ではこれが殺人事件と結びついているとなると」  ちらっと警部補の顔をかすめた妙な影を見て、英策はその肩をたたいて部屋を出た。 「こっちの方は君が来るまでに調べておいた。テーブルは二万円送って来て予約してあった。包みをとどけたのは使いの者、人相もよく分らない」 「うむ……」 「ところで君はあの子を、康子さんを警視庁へつれて行って調べるつもりかい?」 「もちろんだ。何のゆかりもない人間に、あれだけの大金とあれだけ貴重な品物を、ぽんと投げ出す阿呆《あほう》もあるまい。表面はアラビアン・ナイトの童話に見えても、警視庁じゃそんな寝言は通用しない。その線をたどって行きさえすれば、必ず何かが発見出来る。極端ないい方をしたら、あの子は犯人の恋人かも知れん」 「呆れて物がいえないぞ。どうして警察官というやつは、そう頭の中がこちこちに出来ているんだろうな」 「何だって?」 「人を見たら犯人と思え——というのが君たちの悪い癖だ。あんな無邪気な、あんな子供が、犯人と何かの関係があって、しかも僕たちを事件にひっぱりこもうという、そんな真似《まね》が出来るわけはない」 「君はあんまり単純すぎる。いわゆるティーンエイジャーのその実態を知らないからだ」 「十代の男女が無茶な真似をするのは今に始まったことじゃない。僕だって若いころにはおぼえもあるよ。ただあの娘は違うんだ。大人《おとな》じゃあ信じきれないあんな手紙を信じて僕の所へ相談に来たんだよ。今晩の事件はあの子にとっちゃあ、まるでシンデレラ姫のような楽しい経験だったに違いないんだよ。ぱっと魔法が解け、夢は破れた。直接その夢を破ったのが僕だと思うと、僕もあの子に対しては大いに責任を感ずるな。これ以上、あの子をいじめてもらいたくないのだ」 「君は極《きわ》めつきの空想家だ。よくこの商売がつとまるな。何といわれようとあの子はつれて行く。法律の定むるところじゃやむを得ん」 「法律、なるほど、それもよかろう。そういわれては君をぶちのめすわけにも行くまい」  大前田英策は、その祖英五郎がいま現代によみがえって来たのかと思われるほどの不敵な闘志をあらわにして、 「僕は決してやくざじゃない。ただ侠客道の精神は祖先からうけついで持っている。強きをくじき弱きを助けるという任侠《にんきよう》心がそれなのだ。君があくまであの子をいじめてこの事件の秘密を探ろうというのなら、僕は全然別の方面からその秘密を解いてお目にかける」 「それは大いに結構だ。たとえば富士の頂上は一つでも、山を登って行く道は幾つかある」 「その道が、まだ若い少女の心をふみにじるようなコースでも君は敢て通ろうというのだな?」  警部補も、いくらか良心の呵責《かしやく》を感じているようだった。何ともいえぬ悲痛な声で、 「職務だ」  と一言吐き出すようにいった。 「やむを得まい」  英策も吐き捨てるようにいって、そのまま廊下を歩み去った。その後姿を見送って、ドアに手をかけた警部補は部屋へ入るのをいくらかためらった。その時中からもれて来る竜子の声を耳にしたからだった。 「ねえ、康子さん。しっかりするのよ。あなたはこれから警視庁へ、つれて行かれるでしょうけれど、何でも本当のことを話すのよ。どうせ、あの警部補さんは頑固一徹だから信用しちゃあくれないでしょうけれど、すぐにわたしが犯人を捕えて鼻を明かして見せるから」     四  警部補は康子を警視庁へつれて帰ると同時に警察電話で、康子の父の雄造《ゆうぞう》に連絡をとるように命じた。  ところが報告は完全に彼の意表をついていた。雄造は中央郵便局の電気係だが、今日は夜勤で局へ出ているというのだ。それから局へ電話をかけて見ると、娘の康子が自動車事故で重傷を負ったという知らせがあっていま飛び出したところだというのだ。  警部補はばりばり歯ぎしりして口惜《くや》しがった。 「ええ、娘が怪我《けが》をしたなんてとんでもない話だ。そんな贋《にせ》電話をかけるのは、大前田か川島かどっちかのしわざに違いない。後で油を絞ってやる」  警部補の予想はあやまっていなかったようだ。雄造を呼び出したのは竜子の捨身のはなれわざだった。幸い康子の口から、今日は父親が夜勤だと聞いていたので、すぐに局へ電話をかけ、病院の前で待っていて、自分の顔なじみの宿屋へひきずりこんだのだ。最初はぷりぷり怒っていた雄造も竜子の話を聞いているうちに真剣な態度になって、 「じゃあ、娘はもう警視庁へ」  と腰を浮かしかけてたずねた。 「そうなんです。半分はわたしにも責任はあるんです。その手紙の通りにするようにすすめたのはわたしなんですから……でも、松隈さんのいうように、康子さんが犯人と何かの関係があるなんてとっても信じられません。きっと何か大きな秘密があるんです。だけど考えて見れば、警察の見方も一応もっともでしょう。全然何の関係もない人間を、ああして手紙でよび出して、大金や宝石を渡そうなんて常識じゃ考えられないことですわ。それにこの頃《ごろ》の警察と来たら、一度こうときめたら一本道を馬車馬みたいにつっ走って、白でも黒にしてしまうんです。康子さんを助けようと思ったら、わたしたちみたいに、その無実の罪を信じている人間が積極的に働かないと……お嫁入り前の康子さんに傷がついちゃあかわいそうです。ねえ、お願い、お金は一銭もいりませんから、わたしにこの償いをさして下さい」  日ごろ勝気な竜子にしては珍しく、女らしさを表に出しての哀願だった。雄造もその真情にほだされたらしく坐り直して、 「償いって、お前さんがいったい?」 「おじさんの御存知のことを残らず話して下さればいいんです。どなたかそんな大金を康子さんに上げようというお方がどこかにいないでしょうか? たとえば御親類でブラジルへ行って成功なすったお方とか何とか……」 「そんな有難い親類はいない……それに娘も十七だ……」  たとえようもない哀調が、その言葉の中ににじみ出ていた。まるで警視庁の予想を裏書きするようなこの言葉に、竜子もはっと胸をつかれて、もう何とも質問の矢がつげなかった。  一方、大前田英策は、そのころ築地の桑原《くわばら》商事という会社を訪ねていた。  表看板は海産物専門の商事会社だが、社長の桑原|詮造《せんぞう》は大陸くずれのしたたか者、何が本職やらはたから見てはさっぱり予想も出来ない。 「おう、五代目か、珍しいなア」  詮造は応接室に入って来るなり気軽な態度で口を開いた。見るからに精悍《せいかん》な面構え、ぐっと英策の顔を見つめて椅子に腰をおろした。 「忙しいので御無沙汰《ごぶさた》ばかりしているが、商売の方はどんな工合だ?」 「まずまあまあという所だ。どうにかこうにか、食いつないでいるだけ、まずまずとしなくちゃいかんだろうが」 「ところで今日やって来たのはほかでもない。昨日殺された戸塚夫人——あの女と君とはこの頃親しくしているという話をちょっと聞いたのでね」 「うん、そのことでは今日も警視庁に呼び出された。一席弁じて帰って来たが、別にそれほど深い関係があるというわけじゃない。ああして、派手な生活ばかり続けていたんで、はたから見る目とは違って手もとも苦しいんだろうな。いろいろな宝石なども売りに出しているという話だったが」 「うむ、見ると聞くとは大違いだというからな。それで今恋人というのはなかったのか」 「あれだけの女だ。男と同様、女にだって生理的要求というものはあるからな。ずいぶんと、若い燕《つばめ》も作って小遣もみついでいたらしいが、本心から惚《ほ》れた相手がいたかどうか、そのあたりはこっちみたいな第三者には、想像もつかないことだ。金のためなら、どんなことでもやりかねないこの頃の様子を見てると、あの女もずいぶんおちぶれたものだという噂がとんでいたよ」 「うむ、だが占領当時にはごっそりためこんだんだろう。それほど窮迫した理由というのは何だろう」 「これだよ」  詮造は、つぼを開ける真似をして見せて、 「もっともさいころや花札じゃなくって、ルーレットかポーカーか、そういった高級な国際的|博奕《ばくち》らしいがね。アラビアンクラブ——といういわゆる高級社交機関があるだろう」 「話だけはうすうす聞いている」 「彼女はそこの常連だった。ところがクラブの会員でも、長続きするやつはいないらしいな。金の切れ目が縁の切れ目、われわれが鉄火場で金を貸し借りしても、まる一日には方《かた》をつけるのが常法だが、あのクラブじゃあ、もっと阿漕《あこぎ》な真似もするらしいぜ」 「警視庁で話したのか? そのことを……」 「話せるものか。桑原詮造、まだ人を密告するほどおちぶれてはいないつもりだ」 「それで、その会員の名前は?」 「入用なのか。それなら調べさせておく」 「たのむ。大急ぎでその会員の名簿のようなものがほしい。戸塚綾絵殺しの犯人は、恐らくその中にいると睨《にら》んだ」 「五代目、お前は相かわらずの命知らずだな」  詮造は呆《あき》れたような笑いをうかべて、 「いまの東京は見方によっちゃ、魔都といわれたむかしの上海《シヤンハイ》よりひどい暗黒都市かも知れん。もちろん、表むきには警視庁というものがあり、法律というものがある。ただその一枚裏側の暗黒街には、その街の帝王がおり法律がある。やつ等は人を殺すのに、めったに死体を残すような不器用なまねはしないからな」 「それじゃあ、戸塚綾絵を殺したのはやつ等じゃないというのか」 「そうはいえない。ただ、やつ等が犯人だとすれば、死体をああして残しておいたのは、何か特別な目的があったんだろうと、おれは思う。お前も下手な真似をすると、文字通りこの世の中から消されてしまうぞ。おれがどんなに骨を拾ってやろうとしても、その拾う骨がねえなんてことになるからな」  英策は自信ありげな微笑とともに、 「おれの御先祖がいいことをいってる。人間一度死んだら二度は死なないが、さてその死に方が問題だとな。またこんなこともいっていた。百人の中の九十九人が危いと思うことが案外安全だ。人間寿命というものがあれば長脇差《ながわきざし》の林の中に飛びこんで行ってもかすり傷もおわねえし、寿命が尽きりゃあ、畳の上でも生きていられないとな」 「五代目、お前の言葉はあっぱれだが、どうしてまたこんな危《あぶね》え仕事に手を出そうて気になったんだ」 「ある女の子がかわいそうでな。もっとも色恋の沙汰じゃない。まだ十七の、妹か子供みたいな年頃だが」 「お前の酔狂にも呆れたぜ。ただ、あのクラブの持主にだけは気をつけなよ。見たところは虫も殺さぬような顔はしているが、腹の底では何を考えていることか、あんな冷たい人間は見たことがねえ。洪秀明《こうしゆうめい》という中国人だが」     五  その二日後の夕方——  銀座裏の宝石店、美賞堂《びしようどう》から出て来た三十四、五の女がある。服装からいっても、顔だちからいっても、上流社交界の女性と思われるが、突然その前に二人の男が立ちふさがって、 「恩田愛子《おんだあいこ》さんですね」 「あなた方は?」  一人が黒い手帳をつきつけて、 「警視庁の者ですが、これから御同行願います」 「わたしが警視庁へ? いったい何をしたというの?」 「闇《やみ》ドル使用の容疑です。詳しいことは本庁へ参ってうかがいましょう」  女は明らかにおぼえがあるらしく、顔の筋肉をぴくぴくと痙攣《けいれん》させた。 「そんな……そんなおぼえはありませんわ。そんなことで、こんな所からつれて行かれるんですか。逃げもかくれもいたしませんから、家まで召喚状を持って来て下さい。まさか逮捕なさるんじゃないでしょう」 「奥さん、黙って同行なすった方がよろしいんじゃありませんか」  一人が妙に凄《すご》みのあるせりふをきかせて、 「三、四日前、戸塚綾絵の死体が赤羽の近くで発見されましたね。被害者はアラビアンクラブの会員だったし、奥さんもそうだ。その関係についてもちょっとおたずねしたいことがあるのです」  急所をつかれたように女はよろめいた。しかしあくまで虚勢をはって、 「そりゃあ戸塚さんはよく存じ上げておりますわ。でも、あの殺人事件についちゃあ、わたくし、何も存じておりません」  一人が妙なうすら笑いを浮かべて、 「こんな所であんまり立話も何ですから、とにかく警視庁まで」 「行く必要はない」  突然、力のこもった男の声が聞こえて来た。三人がはっとそちらをふりかえると、大前田英策が冷たい笑いを浮かべながらその場に立っていた。 「君は誰《だれ》だ?」 「ははははは、誰だという挨拶《あいさつ》はないだろう。その警察手帳をもう一度見せてもらおうか」 「何だって?」 「君たちは、いったい何時から警視庁へ鞍《くら》がえしたんだね?」  一人がいきなり、アッパーカットの一撃で英策の顎《あご》をつきあげようとした。その手を逆に押えて英策は相手を道にたたきつけた。いま一人がいきなりおどりかかって来たのを、今度は大外刈《おおそとがり》の荒技《あらわざ》で、二、三|間《けん》先まで投げ飛ばした。 「おぼえていろ!」 「この仇《かたき》はきっととってやるから」  刑事のはずなのに、それ以上何の反撃もなく、二人は捨てぜりふを残して逃げ出した。英策はべつにあとを追おうともせず、苦笑を浮かべて、女を見つめ、 「奥さん、とんだやつに捕《つか》まりかけましたねえ。あいつ等は銀座のダニで、強請《ゆすり》たかりの常習犯だが、偽《にせ》刑事とは考えましたね。ああしてどこかへつれこんで、何かをたくらんでいたんじゃありませんか。車へのせてしまえば、麻酔剤という手もあることだ。拳銃《けんじゆう》でおどしつけられたんじゃ、抵抗も出来ませんからね」  と淡々たる事もなげな調子でいった。 「まあ偽刑事だったんですの?」  女は恐怖と感歎のまじった溜息をもらしながら英策の顔を見つめ、 「本当に有難うございました。勿論《もちろん》身におぼえのないことですから、警視庁へでもどこへでも参るつもりでおりましたけれど、そういう相手だったら、どんな目にあわされたかも知れませんわね」 「まあ、とにかくお怪我がなくて何よりでした。あいつらの顔は知っていますから、警察へ知らしておきましょう。では失礼」  かるく一礼して立ち去ろうとした英策を愛子はあわててひきとめた。 「あのせっかく助けていただいて、このままおわかれしたんじゃあ、わたくしの気持がすみませんわ。お名刺なりと……もし、およろしかったら、お食事でも」 「そうですね……それじゃあ、どこかのバーで、ウイスキーでも一杯|御馳走《ごちそう》になりましょうか」  つれだって近くのバーへ入ると、英策はウイスキーをぐっと飲みほし、 「奥さん、一ついいものをお目にかけましょうか」  とダイスをとりよせて、 「奥さんのお好きな目をどれでも出してお目にかけますよ」 「十一」  愛子は身をのり出してつぶやいた。その眼は何ともいえない興奮に輝いている。  英策はにやりと笑ってダイスをふった。出たさいの目は五と六——あわせて十一。 「まあ、どこで修業をなさったの?」 「先祖代々この道の専門家で、先天的に博才《ばくさい》があるんですな。勝負という勝負なら、百回のうち九十九回までは勝てる自信がありますからね」 「どんな場所でも? どんな方法でも?」 「これがルーレットだとしますね。三十六の数字のうちで一つだけあてろといわれても無理ですがね、赤と黒、奇数と偶数ぐらいならまずあたるでしょうね。ふしぎなもので、ああいう賭《か》けには、勝負の流れというものがあるんで。たとえばさいころ博奕でも、丁《ちよう》と半との出る確率は一対一。だから今度丁が出たら、次には半が出るかというとそうはいえない。そこには不思議な勝負の波動があるんですよ。その波の性質を早く発見して、波に乗ったら勝ち——要するに、その時その時の勢いを早くキャッチすることが勝負の秘訣《ひけつ》でしょうね」  たしかに先祖伝来、この道では鍛え上げているだけあって背広姿は一|分《ぶ》のすきもない紳士だが、こうしてダイスを手にしている恰好《かつこう》には何ともいえない風格があり、言葉の一つ一つにも、満々たる自信がみなぎっている。その男性的な、彫りの深い横顔を、愛子は何かにつかれたように、瞬きもせずに見つめていた。     六  アラビアンクラブは青山の高台にある。もとは何々宮の御屋敷、戦災は辛うじてまぬかれたが、それがこうして奇妙なクラブになったところを見ると、かえって生き恥をさらしたような感慨さえ湧いて来るのだ。  もちろん、表に看板が出ているわけはない。会員とその同伴者以外はすべてオフ・リミット。  愛子といっしょに英策がこのクラブへ姿をあらわしたのは、その夜の九時すぎであった。 「オクサン、イラッシャイ。ソノオカタ、ドナタデスカ」  玄関を入ったすぐ控えの間で、二人を出迎えたのは、中国服を着た五十二、三の男だった。左の頬《ほお》に、刀傷らしいものが残っているのが、ただでも一癖ありげなこの男の顔を一層ぶきみに見せている。 「わたしのナイト——大前田英策さん。船乗りシンドバットよ。こちらはこのクラブの持主洪秀明さん」 「ワタシ、コウシュウメイ、ヨクイラッシャイマシタ」  洪秀明はたどたどしい日本語でいって、英策に手をさし出した。その手を握って英策もびっくりしてしまった。その男の手は、体温があるのかと疑われるほどの冷たさ——まるで冷血動物のように思われた。  そこから広間へ一歩ふみこんだ時、英策はあっと口の中で叫んで、立ち止まった。 「どうかなすったの?」 「いや、べつに何でも」  とは弁解はしたものの、英策も内心ではぎくりとしたのだった。  ルーレットの前に、外人たちとならんで坐《すわ》っている女は疑いもなく、川島竜子。今日はどぎつい化粧をして、外人のような装いだが、たしかに彼女に違いない。  竜子はよほど負けがこんでいるようだった。ハンドバッグの中から、小切手を一枚とり出して、 「はい、銀行振出しの小切手で三十万——これだけチップを」  といって、自分の眼の前に、チップの山を築き上げた。  英策はだまってその席の前の椅子《いす》に腰をおろした。二人の視線があった時、竜子もぎくりとしたようだったが、そ知らぬ顔で、 「奇数にこれだけ」 「偶数にこれを」  間髪《かんはつ》をいれずに英策が応じた。  ルーレットの円盤がまわり、銀色の球がころころ、文字板の上を動きはじめた。おちついた数字は十四——英策の勝ち。  十回と勝負が続かぬうちに、竜子は手もとのチップの山をすっからかんにしてしまった。苦い顔をして立ち上がる竜子をながめて、英策は自分の席を愛子にゆずった。 「どうなすったの?」 「ちょっと、一服して来ます。緒戦の勝ちはこれぐらいで十分でしょう」  英策は竜子のあとを追い、部屋の隅で煙草《たばこ》に火をつけているところをつかまえて、 「またあったね」 「また、性《しよう》こりもなく、わたしのあとをつけて来たのね」 「今度はそうじゃない。偶然の一致だ」 「どうだか?」 「今はお気の毒なことをしたけど、博奕の秘訣はついていない人間の逆に逆にとはって行くことなんでねえ。いわゆる逆張りという手だが——ほかのことならともかく、この道にかけてはこっちが二枚も三枚も上手《うわて》だ」 「とんだ所でかもになったわね。でも見てらっしゃい。今に眼に物見せてあげるから」  激しい競争意識を両眼にこめて、竜子は英策を睨みつけ、そのままそばから離れて行った。その光景を反対側から見つめていた男女がある。 「あいつらがわかるか。ありゃ二人ともただ者じゃないぞ」 「眼つきは二人ともそうだわね」 「おれの眼に狂いがなければ、あれは二人とも探偵だな」 「でも……まさか探偵なんかにしちゃあ、どっちもえらく金ばなれがいいじゃない?」 「これが刑事や何かなら、たしかにこんなところへ出入りするほどの金もあるまいが……うむ、お前はあの男を色仕掛で探って見ろ。おれはあの女の方をひきうける」 「これをいいことにして、浮気するつもり?」 「お互いだ。お前こそ、心から惚れこまないように用心しろ」  二人は眼くばせして壁のそばから離れた。まず男が竜子のそばに近づいて、 「奥さん、今夜はあんまりついていらっしゃらないようですな。何だったら、資本をお廻ししましょうか?」 「軍資金なら用意はあるけれど、今晩はどうも武運つたなくて……」 「まあ、そんならむこうでカクテルでも一つ、気分を変えて出直せばまたとれますよ」  肩をならべてバーの方へ消えて行く二人を、英策は煙草の灰を落としながら、じっと見送っていた。 「ねえ、マッチを貸して下さらない?」  そこへ近づいて来た例の女が、なれなれしく声をかけた。 「さあ、どうぞ」  愛用のライターをパチンと鳴らしてやると、女はふっと紫色の煙を吐いて、 「どうもありがとう。あなたは今晩ずいぶんついてらっしゃるわね。どうしておよしになったの。わたしも、あなたの目にのせていただこうと思っていたのに」  と、媚態《びたい》のあふれた声でいった。 「何しろ、むこうの曲り屋さんが立ったので、ねらう相手がなくなりましてね。それにルーレットの方はあんまり得意じゃないんですよ。ダイスの方なら、まず百のうち九十八まではとれますが」 「まあ、すてき、腕前を見せて下さいません?」  にやりと笑った英策は、女といっしょに隣りの部屋へ入ると、ダイスをふって、望み通りの数を出して見せた。 「まあ、まるで神業のようだわね……」  女は開いた口もふさがらぬという調子で、 「あなた、この道の専門家?」 「というわけでもないんですが、年期は入れていますからね。さいころに何のいかさまがなくてもつぼをふった時に、丁と半とを自由に思うように出せなくっちゃ、一人前のやくざとはいえないんですよ。どうです、あなたから話をして、このクラブで使っちゃくれませんかね。目下失業中だから」 「まあ、そんなことをおっしゃって。あなたのようなお方なら、お金と女とには不自由なさらないでしょうに」 「それなら何もこんなにがつがつはしないけれど、あいにく独身の一文《もん》なし。ただこの腕を買われて、恩田さんの奥さんに、ここへつれて来てもらっただけですよ。儲《もう》けは折半の約束でね」 「御冗談ばっかし。そんなにお口がお上手だと、どんな女でもころころ参りますわね。いまも、あそこでおきれいなお方と仲よさそうにお話しなすってたじゃありませんか」 「いや、べつに顔なじみでも、口説くつもりでもないんです。ただ、あんまりまきあげちまったもんだから、敗軍の将をちょっとなぐさめていただけですよ」  英策は豪放な態度で笑った。 「いよいよすてき、どう、資本の方なら、わたしがいくらでも心配するけど、思う存分腕をふるって下さらない?」 「それは有難いお話ですがね。やはりこういう賭け事は、資本家と勝負師の呼吸がしっくりあいませんとね。まだお名前もうかがっていないくらいだから」 「まあ、御免なさい。うっかりしてしまって、わたくし斎藤玲子《さいとうれいこ》と申します。どうぞよろしく」 「大前田英策というかけ出し者で」  二人の呼吸はようやくぴったりあったようだった。 「どう、あちらで一杯めし上がりません? ついているお方のお酒は御馳走になれというから、一つ御馳走していただくわ」 「光栄の至りですが、あのお方に怒られませんかねえ。いまあなたが、あそこでお話ししてらしたお方」 「まあ、お眼がお早いこと。べつに何でもありませんよ。このクラブの支配人で、青木辰雄《あおきたつお》さん、あとで御紹介してあげますわね」 「その節は、就職の方もどうぞよろしく」 「また、そんなことをおっしゃる」  玲子は片手でぶつようなしぐさをして見せた。 「オオマエダサン、アナタハコンバン、カチッパナシナソウデスネ。ドウモオメデト」  いつの間に、この部屋に入って来たのだろう。二人のそばにつっ立った洪秀明は、たどたどしい日本語でいいながら、この二人に、そしてガラス戸越しに見える青木辰雄と川島竜子の後姿に、蛇《へび》のように冷たい視線をあびせかけた。     七  その夜おそく、英策はいつになくにこにこ顔で杉並の自宅へ帰って来た。まだ独身で、家には居候《いそうろう》だか書生だか分らないような青年が留守番をしている。それに通いの婆《ばあ》さんと愛犬のスピッツとそれが家族のすべてなのだ。 「親分、お帰んなさい」  と出迎えた、この黒崎《くろさき》という青年に、 「また始まった。親分だけはよせっていってあるじゃないか」 「間違いました。先生、お帰んなさい」  英策は笑って部屋へ帰ると、着物に着かえた。その時、妙な声をたててスピッツが鳴きはじめた。  ベルの音——そして誰かが玄関の戸を開けたような音だった。 「誰かな? 今時分……」  とつぶやいて、英策が首をひねった時、突然玄関の方で鈍い銃声、そしてわーっという呻《うめ》き声とともに、人がどたりと崩れる音がした。 「なぐりこみか?」  どたどたと足音がして、部屋の戸が開き、一発、二発、弾丸が英策の頬のあたりをかすめて来た。戸が開くと同時に、英策が手もとの灰皿《はいざら》を相手の顔にたたきつけたので、わずかに狙《ねら》いがはずれたのだろう。  相手のひるむのを見て、英策はいきなり手もとにおどりこんだ。武器は猟銃——その銃身に両手をかけてうばいとると、足で相手のみぞおちを必殺の気合をこめて蹴上《けあ》げた。  倒れた相手に、猟銃の銃口をつきつけて、 「おい、ここをどこだと思っていやがる。なめた真似しやがると承知しねえぞ」  自然にどすのきいた鉄火なせりふが飛び出したのは、やはり生まれながらの環境のせいだろう。  相手は真青《まつさお》の顔でがたがた震えていた。きっと瞬時の後には、英策が引き金をひくと思ったのだろう。血を吐くような声をふり絞って、 「助けてくれ! 命だけは……」 「手前が人を殺しに来て、今更助けてくれもねえもんだ。さあ、命がほしかったらわけをいえ。どんな理由で、おれを殺しに来やがったんだ」 「たのまれたんだ。博奕《ばくち》の上のいざこざということにして……猟銃を使えば、ハジキを使うより罪が軽いというもんだから」 「それで、誰にたのまれたんだ? その頼み手の名をいえ」 「それは……それは、桑原の親分に……」 「何だって?」  英策も耳を疑った。桑原詮造にはああしてアラビアンクラブや戸塚綾絵のことはたずねたが、この頃ではそれ以外の交渉はない。こうしてなぐりこみを食うような真似をされるおぼえはなかったのだ。  それ以上、いくつもたずねたいことはあった。ただ、玄関から聞こえて来る黒崎青年の呻き声が気になった。 「野郎、おれといっしょに表へ出ろ」 「え……」 「手前、いま玄関でおれの身内を撃ったろう。医者を呼んで来なけりゃいけねえじゃねえか」  相手は恐る恐る立ち上がった。銃口に背をむけて歩き出したが、英策は玄関まで来て倒れている黒崎青年の方へ視線を投げた。傷は右の胸のあたり、幸いに急所も外れているし、出血も少ない様子なので、英策はやっといくらか安心した。 「黒崎、待ってろ。いますぐ医者を呼んで来てやるからな」  幸い、医者は二、三軒先にある。下手に電話をかけるより出かけた方が早いのだ。だが、玄関を開けたとたんに、またどこからか、するどい銃声が一発二発——そして眼の前の男はとたんに血反吐《ちへど》をはいてその場に倒れた。 「畜生やりやがったな!」  一瞬ぱっと地上に伏せて、英策は悲痛な声でつぶやいた。     八  その翌日のことだった。英策は、約束通り斎藤玲子とTホテルのグリルでおちあった。 「今日の夕刊に出ていた殺人、あれはあなたのお宅であったんじゃありませんの」  玲子は心配そうにたずねたが、英策はべつに顔の表情を動かさず、 「そうですよ。気違いにつける薬はありませんねえ。何しろ猟銃を持って夜中に人の家へ飛びこんで来るんだから」 「本当に危い目におあいになりましたのねえ。お怪我《けが》がなくってよかったわ」 「相手は二人だったんですよ。一人が中に飛びこんで、一人が外で見張っていたんですね。若いのがやられたもんだから医者をよんで来なくっちゃいけないし、そいつも警察へひき渡さなくっちゃいけないんで、外へ出たと思ったとたんに、ドンバタンです」 「何か、そんな目におあいになるおぼえはおありなんですの?」 「われわれの仲間には往々にそういう刃傷沙汰《にんじようざた》がありがちでしてねえ」  びくりと玲子は眉《まゆ》をひそめた。テーブルの上に身をのり出し、声をひそめて、 「大前田さん、あなたは御自分のことをやくざだとおっしゃったけれど、本当は探偵さんなんじゃありません? 丸の内のMビルに事務所を持っていらっしゃる?」 「ははははは、ばれましたかねえ、遂《つい》に」 「それだとすると、わたくしも思いあたることがありますわ」  玲子も何か曰《いわ》くありげに眼を伏せた。 「何に思いあたるんです?」 「アラビアンクラブにはどうしていらっしゃったの? 博奕の現場をおさえにいらしったの?」 「そこまで野暮な真似《まね》はしませんよ」  英策もかすかに苦笑いして、 「そりゃあ、博奕が奨励すべき美風だとは僕もいいやしませんがねえ。賭《か》けというものは人生につき物じゃありませんか。考えて見れば競馬、競輪、宝くじ——何とか名目は立てているけれど、みんな政府公認の博奕でしょう。金額の多少はあるにしても、麻雀《マージヤン》に金をかけるということは、もう勝負の定法みたいになっている。それなのに、ルーレットやポーカーだけがいけないという理屈は妙だと思いますね」 「それじゃあ、あなたは戸塚さんを殺した犯人を探してらっしゃるんじゃないかしら?」 「図星——たしかにあなたのおっしゃる通りです」  玲子の顔には、とたんに暗い影がかすめた。ほっと大きな吐息をつきながら、 「それじゃあ、およしなさいまし。きっと昨夜あなたを殺しに来た男も、その犯人のさし金です。一度は運よく逃れられても、そういつも柳の下にどじょうはいませんわ」 「どうやら、あなたのお話を聞いていると、犯人の名前を御存知のようですね」 「ええ、うすうす……」 「それは誰《だれ》です?」  玲子は恐ろしそうにあたりを見まわした。 「大前田さん、あなたはまだ、あのクラブのボスの正体を御存じないんでしょうね」 「いろいろと調査を進めているんですが、まだ」 「いまの東京は裏から見ると、まるで上海《シヤンハイ》のような暗黒都市だといいますね。その暗黒街にもまるで戦国時代のように、群雄が割拠《かつきよ》しているんです。表面にこそ出ませんが、裏での勢力争いは大変なもの、みんなお互いに相手を倒す、自分の勢力を伸ばすためには手段も選ばないんです。その帝王の一人が洪秀明なんですわ」 「なるほど、やくざの縄張《なわば》り争いを現代化したようなものですな。それで?」 「わたくしも詳しいことは存じませんけれど、ちょっと耳にした話ですと、戸塚さんというお方はそのもう一人のボスと関係があったらしいんですね。その命令で、アラビアンクラブへ入りこんでスパイのような仕事をしていた。つまり洪秀明の死命を制するような急所をおさえようとしていたらしいんですね。それが分ったんで殺された——と、こういうわけじゃないんでしょうか」 「ありそうな話ですねえ。ただ、それが真相だとしても、洪秀明を殺人犯人として捕えるわけには行きますかしらね。いや、これはやくざ仲間の話ですが、たとえばそういう勢力あらそいで、人を殺したとするでしょう。その時には、罪をかぶって刑務所へ行く代役がちゃんときまっているんですよ。親分が白いものを黒だといったら、黒ですと答えなくっちゃいけないのがやくざの子分の悲しさで、そんな調子で、もし洪秀明が犯人だったとしても、その罪をひきうける代役はちゃんときまっているんじゃありませんかねえ」 「それじゃあ、あなたは黙ってそのまま、はいそうですか——とひき下がるの?」 「それが、僕のように自分の意地で動いている探偵と専門の警察官の異なるところでしょうな。機動力、組織力、そういうものでは、僕たち個人の力は到底警視庁には太刀うち出来ない。ただ警察官というやつは往々形式主義におちいりやすい。犯人が、いや犯人と考えられる人間が捕《つか》まって、たとえ拷問《ごうもん》をうけてもとにかく自白して、調書が出来ると、それでわが事終われりですからね。数多くの事件はあつかえなくっても、一つ一つの事件ではとことんまで掘り下げられる——それが素人《しろうと》探偵、いや私立探偵の特権ですね。だから僕は今度の事件に関するかぎり、そんな代役にはだまされませんよ」  玲子はなぜか知れないが、びくりと全身をふるわせて、 「それじゃあ、洪秀明が犯人だ——という証拠にはどういうものがほしいんです?」 「こりゃ手きびしい。なるほど、暗黒街の帝王ともなれば、アリバイぐらいは用意してあるでしょうし、犯人の代役もあれば、自白なんかもしっこない。殺人の現場をおさえるか、それともぬきさしならぬ証拠がないと」 「その証拠をあなたに提供しましょう。わたしは最初あった時から、あなたに一目惚《ひとめぼ》れだったのよ。あなたに手柄をたてさせたいの」     九  玲子と別れると間もなく、英策は桑原商事の事務所へのりこんだ。 「桑原君はうちか?」 「ええ、その……二階で」 「通る」  英策はだまって階段を上がった。家のあたりの警戒がきびしいと思ったのも道理、二階では小人数ながら丁半《ちようはん》の争いがいまたけなわな所だった。 「おお、五代目か、よく来てくれたな」  床柱を背負っていた詮造が顔を上げるのに、 「話がある。階下まで顔を貸してもらおう」  詮造は別にひるみもしなかった。階段をおりて応接室へ入ると、悠々《ゆうゆう》椅子に腰をおろし、 「何の用だ?」 「どうしておれを殺そうとした?」 「何だって!」 「白《しら》っぱくれるのもいい加減にしろ」  英策は昨夜のなぐりこみの一件を物語ったが、詮造は呆《あき》れ返ったような顔で、 「おぼえがない。おれがいったい何だってお前を殺しにやらなくっちゃならねえんだ?」  と逆襲した。 「五代目、それは何かの誤解じゃねえか」  英策は、ずしりと重い拳銃《けんじゆう》をテーブルの上に投げ出し、 「さあ、卑怯《ひきよう》なことをいわねえで、撃つなら撃って見たらどうだ。ただお前がこいつに手をかけるまでにゃあ、そっちの胸板に穴が開いているぜ。こっちは正当防衛だ」  詮造はたらたら脂汗を流して、 「おぼえがないんだ。本当に……」 「それじゃあ誰がしたというんだ。そっちの名前をかたったのは誰だ?」 「洪秀明じゃないだろうか? おれはあれだけお前にいったじゃねえか。お前がこの事件に手を出したら、必ず刺客をむけるぞと」 「うむ」  詮造の言葉には嘘《うそ》はない——と英策は直感した。 「そうか。騒がせてすまなかったな。白と黒とがはっきりしたらまた来るぜ」  何のこだわりもなく、拳銃をポケットへほうりこんで、外へ出た時、彼の眼の前にすーっととまった大型黒塗りの車がある。 「お乗んなさい。大前田さん」  中から男の声が呼びかけた。 「君は誰だ?」 「洪秀明」  言葉には、前のようなたどたどしさがなかった。何のなまりもない立派な日本語だった。 「なるほど、帝王わざわざのお迎えとすると、こりゃ乗せていただかなくっちゃなるまい」  英策もべつにひるみもしなかった。中には洪秀明が一人だけ。車は矢のように走り出した。 「さて、わざわざお出ましの用件は?」  洪秀明はかすかに笑って、 「大前田さん、あんたとおれがこれからどんな関係に立つとしても、この車の中では休戦ということにしよう。分ったね」 「よろしい。そっちがそういう風に出てくれば、こっちも一切手出しはしない」 「いい気っぷだな。その気合におれは惚れたのさ。どうだい一つ、このあたりでおれと手を握る気はないか」 「無条件降伏を要求するのか」 「そうじゃない。そっちの要求は何でもいれよう」  英策がちょっと黙ったので、脈があるなと思ったのか洪秀明は気をひくように、 「どの世界でも同じことだが、人物というものはいないもんだ。それは光の世界でも闇《やみ》の世界でも変わりはない。だからあんたの顔を一目見た時、おれはおやと思ったんだ。それから今日一日、あんたの商売を逆にこっちが身元をしらべて、これならおれの片腕になってもらえると思ったんだ」 「それで?」 「失礼だが、そんな私立探偵なんかして、どれだけの稼ぎになるんだね? わずかの金で場合によっちゃあ命をかけなきゃならないとしたら、商売としたってえらく割の悪い商売じゃあないか。危険はどっちも同じこと、その体をおれに売ってくれないか」 「いったい幾らで買うつもりだ?」 「三千万——いや、五千万円ならすぐ出そう」  英策はからからと大声を出して笑った。 「おれの祖先の英五郎がいいことをいっていた。どうせこういう渡世だが、おれはあくまでお天道《てんとう》様の下だけ歩いて一生を送った——とな。たった五千万ぐらいのはした金で、明るい所を大手をふって歩けねえような身には、おちぶれたくねえな」 「うむ」 「世の中にゃ、金で買えないものがいくつかあるんだよ。そこが暗黒街と太陽の照っている街の違いなんだ」  洪秀明も英策の言葉には、いくらか動かされたようだった。葉巻に火をつける手がかすかに震えていたのは必ずしも車の動揺のせいばかりではなかったろう。 「おれは御覧の通りの素寒貧《すかんぴん》だ。だがよくしたもので人様は食わせてくれる。三度の飯の不自由がなければ、人殺しの手伝いまではしたくない」 「何も、あんたに人殺しをたのむつもりはないが……」 「でも、自分がたとえ手を下さなくっても、人に殺させたら同じことだ。たとえば戸塚綾絵のように」 「あの女を殺したのは、おれじゃない。おれの命令したことでもない」 「それじゃあ、昨夜おれに刺客をむけたのもそっちのしたことじゃないというのか?」 「大前田さん、めったなことじゃ、よそへ出むいたことのないおれがこうしてわざわざたずねて来たんだよ。たとえていえば、玄徳《げんとく》皇帝が孔明《こうめい》に三顧の礼をとったようなものだ。それだけ男が惚れた男に、どうして刺客をむける必要がある? それもこの交渉が決裂してからならともかく、まだ話も始めないうちに。それだけはおれの言葉を信じてくれ」 「うむ……」  今度は英策がうなる番だった。 「分った……それじゃあ、あんたやあの女探偵は、おれが綾絵殺しの犯人だと見当をつけてクラブへのりこんで来たんだね?」  その質問に答えもせず、英策は突如|鉾先《ほこさき》を転じて、 「それじゃあ、船乗りシンドバットとはどういう意味だ? シェヘラサーデとはいったい誰だ?」 「誰——という特別の意味はない。あのクラブでは、そう、たとえば彼氏というかわりにシンドバットといい、彼女というかわりにシェヘラサーデというのだ」 「それからもう一つたずねるが、村田康子という娘、まだ十七の少女だが、この子は君とどういう関係の人物だ?」  明らかに、この質問は鋭く、洪秀明の胸をえぐったらしい。電流にうたれたように激しくその身を戦《わなな》かせると、彼は大声で運転手に停車を命じた。ちょうど新宿の近くだった。 「さあ、今晩の会見はこれで終わった」 「休戦期間も終わったわけだな?」 「その通り。しかし君がほかの車に乗りかえて、この車から百メートルはなれるまではその延長だということにしよう。まさか、お互いに新宿の大通りで、車の窓からパチンコの勝負も出来まいからな」     一〇  そのころ竜子はアラビアンクラブの支配人室で、青木辰雄と虚々実々の会話をまじえていた。 「ねえ、竜子さん、こんなことをいったら四十面をして、きざっぽいといわれるかも知れないけれど、僕はあなたが好きになってしまったらしい」 「まあ、こんなM過剰の、セコハンの、売れ残りの、お茶っぴいのすれからしの、どすのきいた濁《だ》み声の姐御《あねご》のどこがお気にめして」 「すべてがだ。あなたは、いままでの日本人の女には、全然見られなかったタイプだ。スリルを愛するその勇気、未知の世界をたえず開拓して行こうとするその精神の新鮮さ、そういうものを僕は誰より高く買うね」 「丸い卵も切りようで四角、物もいいようで何とやら——という諺《ことわざ》があったわよ」 「あなたは何でも茶化してしまうんだなあ。真剣なんだ。僕は——この胸の中を割って見せたいくらいだ」 「そりゃ今はそうかも知れないけれど、男心と秋の空とか申しますので」 「竜子さん、僕と結婚してくれないか」  さすがの竜子も度胆《どぎも》をぬかれたような様子で、しばらくは物もいえずにほっとしていた。 「お上手ねえ。その手でいつも女の子をだますんでしょう。結婚は結婚でも試験結婚というやつじゃなくって?」 「いや、僕がここまで思いつめたのは、あなたのほかにないんだ」 「あら、そうかしら。殺された戸塚綾絵さんともホットケーキの仲だったって、誰かいってましたわよ。両方あつあつで、中には蜜《みつ》が入ってたって」 「あんな女……」  青木辰雄は、いかにも汚らわしいと、いうような調子で、唇を歪《ゆが》めて笑った。 「そりゃあこっちも商売だから。どんないやな相手にだって、会員ともなればもみ手をして、鄭重《ていちよう》な挨拶《あいさつ》もしなくっちゃいけないけれど、それが誤って伝わったんじゃないのかな? あんないやらしい女はなかった。全身、虚栄の塊だった」 「うまい表現ね。あなたは文学的素養がおありのようだわよ」 「とにかく、すべて虚栄心。すべてが演技だったねえ。外国人と大勢つきあっているうちに、日本人としちゃあ、あまりに大げさな演技過剰になってしまったんだね。彼等を利用しぬいているつもりで、自分が利用されていることには気がつかなかったんだね。残ったものは、チューインガムのしゃぶりかすのような味も風味もないだしがら。ただどこへでもべたべたとくっつきたがった。もう、そうなると、まともな人間は相手にしない。落ち行く先は知れている」  竜子は、今度は半畳も入れずに、だまって相手の言葉に耳をすましていた。 「たとえば、彼女はこのクラブで大変な借金をしたんだよ。勝負の神というものは、落ち目の人間には苛酷《かこく》なものだ。損を埋めようとしてまた損の上塗りをしては結局、底も知れない泥沼へずるずる落ちこんで行くものさ」 「それで?」 「たとえば、彼女はこの宝石を担保に入れて金を借りた。ほら、これも、これもだ」  青木辰雄は金庫を開けて、紫色の手箱をとり出し、宝石の山を机の上にならべた。  竜子の両眼が鋭く光った。その山の中から、あの時キャバレー『ブロードウエイ』で、包みの中に入っていたのと同じ首飾りを発見したのだ。  それをとりあげ、電灯の光に照らして見て、 「こんなものを抵当に、お金が貸せるようで、よくあなた方の商売が出来るわね。これは真赤なイミテイションよ」 「贋物《にせもの》だって! 馬鹿、馬鹿な!」 「だって、いいことを教えてあげましょうか。誰でも、このぐらいの宝石を持っている人間は、必ずイミテイションを一つは作っておくものよ。大して重要でもない席には、そっちをつけて行くものよ。それが女のトリックなのよ」  青木辰雄は黙ってしまった。こうして贋物をつかまされた責任を感じているのか、大きな眼球がおちつきもなく、きょろきょろ動いた。 「こんなたよりない眼力で、わたしをごらんになったんじゃ、後で贋物をつかまされたって、後悔するようなことになるわよ。わたしも、離婚の前科は一犯だし、目下|改悛《かいしゆん》の情《じよう》を示している途中だから、もうこれ以上戸籍が汚れるのは、まっぴら、御免なさいね」  扉を開いて出て行く竜子の後姿を見つめて、青木辰雄は何ともたとえようのない激怒の表情を浮かべていた。間もなく、扉をノックもせずに入って来た玲子は、その顔とデスクの上の宝石を見くらべてはっとしたように、 「あなた、いったいどうしたの?」 「おれとしたことがやりすぎた……」  彼はばりばり歯ぎしりして、 「あまり、あいつがぬらりくらりと鰻《うなぎ》みたいに身をかわすんで、ついうかうかと深追いしすぎた。この宝石が贋物——だということを見やぶりやがったんだ」 「まあ!」  恐らく後はいわなくても、意は自《おのずか》ら通ずるのだろう。玲子も大きく喘《あえ》ぎながら、倒れようとする身を、椅子にもたれて辛うじて支えた。 「……しか、仕方がないわね」 「うむ」  青木辰雄の眼は燃えた。 「こうなったら、禍を転じて福とするしかない。一石二鳥も三鳥もうって見せる」  玲子の耳に口をよせ、何か小声でささやき、 「わかったな」  と強くするどくだめをおした。     一一  竜子は、自分で車を運転すると、アラビアンクラブの門を出た。今度こそ、大前田英策や松隈警部補の鼻を明かしてやれという勝利感でいっぱいで、心もどこかはずんでいた。 「いけない!」  突然、竜子は車にブレーキをかけた。タイヤのパンクに気がついたのだ。しかたがないから車を出て、ポケットからとり出したジャッキで車体を持ちあげて、スペアにとりかえようとしたとき、 「おっと、姐《ねえ》さん、静かにしなよ」  と後ろから、金属の円いものが、ぐっと背中におしあてられた。  ——ピストルの銃口!  と思うと、さすがに冷汗がにじみ出た。 「おとなしくすれば、殺しはしない。さあ、早くこっちの車に移るんだ」  竜子は立ち上がってあたりを見まわした。四、五人の男がぐるりとそのまわりをとりまいている。声をあげても、抵抗しても、ちょっと勝目はありそうにもなかった。  ——しかたがない。行くところまで行って見なきゃあ、しようがないわ。  と口の中でつぶやいたのも、自嘲《じちよう》でもなく後悔でもなく、彼女に持前の極端な楽天主義のためだったろう。  両方から拳銃をつきつけられたまま、竜子は別の車に移った。と思う間もなく、甘酸《あまず》っぱい匂《にお》いを持ったハンカチが、ぐっとその鼻と口とをおおって来た。  ——麻酔剤!  と気がついた時には、その意識は失われはじめていた。車がいつ走り出したか、どこへ走って行くのか——それは全く記憶の中に残っていなかった……。  数日にわたる取調べの結果、村田康子と戸塚綾絵殺しの犯人とを結びつける糸は一本も発見されなかった。松隈警部補は渋面を作りながらも、その釈放令状に署名していた。  しかし、家へおちついてほっとする間もなく、また刑事らしい男がやって来たのだ。 「村田さん、もう一度おたずねしたいことがあります。署までいっしょにおいで願えませんか。今度はお手間はとらせません。あなたお一人で結構です」  とその男は、警察手帳を見せていった。 「また、何かあったのですか?」  警察というと神経過敏になっているから、おどおどしながらたずねたが、相手は笑って、 「実は犯人——船乗りシンドバットと名のって、ああいう悪戯《いたずら》をした相手がつかまったんです。あなた方には大変御迷惑をかけて申しわけありませんでしたが、頑として黙秘権の行使で名前も名のりません。ところが、やっぱりお嬢さんの方を知っているらしいので、出来たらおいで願って面通《めんとお》しをしていただきたいのですが……」  一応理屈は通っているようでいて、よく考えて見ると、おかしな話だった。しかし雄造の方はそこの狂いには気がつかなかった。 「お父さん、わたしも行くわ」  突然、康子が口をはさんだ。 「いけない。お前は疲れている。ここは子供の出る幕じゃない。お父さんにまかせておきなさい」 「だって……お父さん。わたしはその人に、たった一眼だけでもあっておきたいの。あって、ありがとうとお礼がいいたいのよ。ずいぶん辛《つら》い目にもあったけれど、身におぼえのないことですもの。何とでも頑張り通せたわ。誰か知らない、その人は。でも、どうしてわたしという人間を選んで、ああいう物を下さる気になったか、そのわけが知りたいわ。いいえ、わけを教えてもらえなくっても、ただその人に一目だけあっておきたいの……」  雄造もちょっとだまってしまった。何となくほろりと来るような感じさえした。少し妙な考え方だと思ったが、無下《むげ》にはねつけられなかったのは、彼自身、この娘の心の中に、自分とは異質なものがひそんでいることにうすうすながらも気がついていたためであろう。 「お嬢さんも御一緒に行って下さいますか。そう願えれば、まことに有難いのですが。実はこちらからお願いしたいところを、この間のことがありますので、つい遠慮しておったのです」  雄造の決心もやっときまった。 「では参りましょう。康子、お前も一緒に来なさい」  二人はその刑事と称する男につれられて家を出た。ところが淋《さび》しい夜道を二、三丁いったか行かないうちに、突然物かげからあらわれた男が四、五人、いきなり二人に襲いかかって当て身の一撃で、雄造と康子をその場に昏倒《こんとう》させた。 「二人一緒に来てくれたんで仕事が楽になった。さあ、早くそいつらを車へかつぎこめ。万一の用心に、薬をかがせておくことを忘れるなよ」  偽《にせ》刑事は、冷たくいって、煙草《たばこ》をくわえ悠々とマッチをすって火をつけた。     一二  豪華な邸宅に帰って来たが、洪秀明は何となく元気がなかった。  寝室へ入って来ると、だまってウイスキーの壜《びん》をとり出し、コップに半分ほどついで生《き》のままぐーっとあおった。 「あなた、いったいどうしたのよ」  ベッドに入っていた女が、スリップのままぬけ出して来て、鼻声で甘えかけるのに、 「黙って寝ていろ」  といって、またコップに半分ほど酒を満たした。 「そんなに飲んじゃあ毒だわよ」 「うるさい! 自分の酒量ぐらい自分で知っている」 「変ね、あんたは今晩、どうかしているわ」 「どうかしている。どうかしているとも。ははははは、おれは二十年も前からずーっとどうかしていたんだ」  何となく血走った、何となく上ずった眼で天井の一角を見つめ、 「考えて見れば、天下におれほどの悪党はそんなにあるまいな」 「あら、そんなことあるもんですか。自分で悪党だなんていう人にほんとうの悪党はないのよ。それに、わたしは毒婦だもの。毒婦は悪党に惚れるし、悪党は毒婦でなかったら惚れられない。ねえ、これでいいでしょう」 「おれが本当に惚れた女、本当に惚れられた女は決して毒婦じゃなかった。今から十八年のむかしだが……」 「また始まった。そんなのいや! 曾我《そが》兄弟じゃあるまいし、十八年の天津風《あまつかぜ》は、もうおことわりよ!」 「その女のことをあきらめきれなくって、満洲へ、上海《シヤンハイ》へ、それからさんざん悪事をしぬいて、いまじゃ洪秀明などと、外国人の名前を使って……」  とたんにわれに帰ったように、部屋の中を見まわして、 「おれともあろう者が、今日はどうしてこんなに愚痴っぽくなったかなあ」  と空《うつ》ろな声で笑った。女もようやくピントがあったという顔になって、 「何かあったの?」 「うむ、えらい男に出っくわしてなあ。直系ではないか知れないが、大前田英五郎の血をひくという五代目の子孫に出っくわして、すっかり参ってしまったんだ。敵ながら首ったけに惚れこんで、仲間にひっぱりこもうとしたが、どうしてもいうことをきかないんだ」 「だめよ。男に惚れたりしちゃあ、あなたの持論と違うじゃないの。男は女に惚れてりゃ無難だ。男が男に惚れたら、身上《しんしよう》どころか、命までなくする恐れがあると、いってたのはいったいどこのだれ?」 「おれもついさっきまでそう思っていた。金に転ばぬ、女に動かぬ、名前もいらない命もいらない始末に困る人間が、この世の中に生きているとは思わなかったよ。あれにくらべりゃあ、こっちの部下も仲間も誰一人たよりにならない。力でおさえつけているから、何とかこっちのいうことを聞いているものの、万一おれがすきを見せたら、飛びついて来て骨までしゃぶりつくすだろう」  女はいくらか躊躇《ちゆうちよ》の色を見せながら、 「それじゃあ、今日の事も、もちろん知っているんでしょうね」 「今日の事っていったい何だ?」 「川島竜子という女探偵を捕えたという話よ。クラブでやるわけには行かないから、出たところを車をパンクさせて」 「そんなことがあったのか?」  洪秀明は苦い顔をして考えこんだ。 「それから、村田雄造とかいう男も捕えたという話よ。十七になる娘と一緒に」 「何だって!」  洪秀明の眼は一瞬に血走った。狂ったように声を怒らせ、身をふるわせて、 「誰が、誰が、いったいおれに、一言のことわりもなく、そんな出すぎたまねをした!」 「誰がって? あなたのかわりにわたしが命令を出せると思って? みんな青木さんのしたことにきまってるじゃない」 「あの野郎、何を考えてやがるんだ」  よほど興奮したのだろう。ウイスキーの瓶《びん》をとりあげると、今度はコップにも何にもつがず、口につけてごくごく飲みこんだ。 「殺してやる! あの野郎!」  瓶をそのまま、壁にめがけてたたきつけると、彼は洋服|箪笥《だんす》の中から、重い拳銃をとり出した。 「やめて! あなた! 後生だから!」  女もあられもない姿のまま、男の腕にすがりついた。 「青木さんだって、何かのわけがあって、そういうまねをしたんでしょう。あなたは酔ってる。出ちゃいけない。そんな物を持ったりなんぞして!」 「酒は飲んだが、酔っちゃいない。はははは、頭も村正《むらまさ》の刀のように冴《さ》えているとも。やっとわかった。やっと今ごろつかめたんだ。やつの企《たくら》みが、この間からのやつの動きが。どけ!」 「どきません!」 「うるさい!」  女をぐいと突きはなすと、洪秀明は割合しっかりした足どりで、ぐっと部屋から出て行った。     一三 「さあ、これで準備は万端整ったわけね?」  暗く寝静まったような洋館の前に車をつけて、玲子は青木辰雄の耳にささやいた。 「うん、まず芝居でいうなら、これからチョンチョンと拍子木が入って幕が開くところだ」  男の方は自信ありげに、 「これで明日一日もってくれれば、明後日の朝は香港《ホンコン》行の旅客機に乗りこんでいる。一度香港へ着いてしまえば、もうつかまりっこはないさ」 「その後で、この家から三人もの死体が発見されたら驚くでしょうね、あの人も」 「ふン、金のためならどんなことでもしようという、がりがり亡者だ。死体の二つや三つ転がっていたって驚きはしないだろうが、自分の財産がいつの間にか、すっからかんになってたのを知ったら、定めし心臓|麻痺《まひ》でも起こすだろうよ」 「…………」 「しかたがなかろう。もともと、どんな悪辣《あくらつ》な方法でも辞せずに集めたこの金だ。悪辣な方法で猫ばばされても、誰をも恨むわけには行くまい」  二人の得意げな会話を聞いても、いい加減、事の真相は見当がつく。  きっと二人は心をあわせて、暗黒街の帝王——洪秀明の闇《やみ》から闇に築き上げた財産を横領してしまったのだろう。それを秘密に香港へ送金し、自分たちも空路そこまで逃れて、姿をかくすつもりなのだろう。 「でも、あなたとしたら、あの大前田英策を殺し損なったのが残念でしょうねえ」 「ふん、あそこで撃ち損じたのは残念だったが、考えて見れば、それだって怪我《けが》の功名だったかも知れないぜ。生かしておいて、日本で地だんだふんで口惜しがってるあいつの顔を想像しただけでも、三斗の溜飲《りゆういん》が下がるじゃないか」 「香港へついたら電報を打ってやろうかしら。この家を探して見ろ——と。わたしはあいつに手柄を立てさせる約束をしたんだもの」  二人は顔を見あわせて、悪魔のように笑うと、玄関の扉に鍵《かぎ》をさしこみ、中に一足ふみこんだ。 「二人ともずいぶん遅かったな」  嘲《あざ》けるようにいう声がある。広間のスイッチをひねったとたんに二人はよろめいた。  洪秀明が、蛇のように狂わしい眼を血走らせ、拳銃をかまえてその場に立っていたのだ。 「二人とも、壁によって、手を上げろ!」氷のように冷たく、錐《きり》のように鋭い調子だった。 「…………」  言葉を返す余裕もない。迫り来る死の幻影に、二人はただ戦慄《せんりつ》するばかりであった。 「二人とも大いに考えたな。こんなからくりをしていようとは、おれもついさっきまで知らなかった。なるほど、戸塚綾絵は私立の貿易為替事務局だからな。あの女に日本円をはらいこめば、香港でドルがうけとれる。おれの財産をたたき売りにして、その金をむこうへ送っていようとは、おれも気がつかなかったが、お前たちが香港へ着く前に、あの女の口からおれに秘密がばれちゃあ大変だというので、用のすんだあの女を殺したのだろうな」 「…………」  玲子も辰雄も、答える気力もなさそうだった。眼球は宙に飛び出さんばかり、手足はマラリヤのように大きく痙攣《けいれん》し、滝のような脂汗が顔をだらだら流れている。 「何か、申し開きでもあるか。あるならいえ。どんな死刑囚にも、教誨《きようかい》師に懺悔《ざんげ》をするだけのことは出来る」 「…………」 「ないな? ないなら判決、即時に刑の執行だ。裏切の罪は死刑、娑婆《しやば》でいえば謀叛《むほん》罪、大逆罪に相当する」  ぱっと、青木辰雄がその時上着のポケットへ手をつっこんだ。中の拳銃をぬき出しもせず、そのまま射《う》とうとしたのだろうが、一瞬早く、洪秀明の拳銃は、彼の心臓を貫いていた。 「ねえ、あなた! お願い、お願いだわ!」  玲子は床の上に身を投げ、犬のようにあわれな恰好《かつこう》で、洪秀明の方を見あげ、 「助けて、わたしだけは助けてちょうだい。わたしは何も知らなかったの。ただ、この人のいいつけ通り、だまって動いていただけなのよ! この人が主犯ならわたしは従犯、無期懲役でも何でもいい、何でもするから、命だけは助けて!」 「売女《ばいた》!」  ただその一言と、そして短い銃声が、暗黒街の判決、刑の執行だった。床の上に、蛙《かえる》のようにはいつくばった女はぴくぴくと手足を動かし、そして間もなく、ばったり動かなくなってしまった。  洪秀明は、憐《あわ》れみと怒りと自嘲《じちよう》とのまじった複雑きわまる表情で、じっと二人の死骸《しがい》を見つめていた。  それから彼は死体の方に背をむけて、廊下を奥へ歩き出した。右側の扉を開けると、部屋の中には、椅子《いす》にくくりつけられ、猿《さる》ぐつわをはめられた竜子が、いともあわれな恰好で坐っている。 「女探偵さん、いまのさわぎは聞いたろうね」  竜子はそのままこくりこくりした。 「なるほど、口はふさがれているけど、耳も眼も開いているからな。おれは御覧の通りの殺人犯人だ——暗黒街の法律じゃあ、当然すぎる成敗《せいばい》だが、日本の法律じゃあ、そういうことになるんだろう。だがおれは、今まで明るみの法律には従わないのが主義だったし、またこれからも従わないつもりだから、これからすぐに身をかくす。あの二人は生かしておくつもりだから、君の方は死んでもらわなければ具合が悪い。分ってくれるな」  分るにも分らないにも返事も出来ない。また、仮に口がきけたとしたところで、こっちの理屈を聞いてくれそうな相手でもない。竜子は完全に絶望しきって、眼の前をかすかに上下する銃口をじっと見つめている。 「洪秀明、待て!」  突然、後ろから呼びかけた声がある。はっとふりかえった彼の手から、血しぶきとともに拳銃が横へとんだ。  そのまま、洪秀明は頭を下げて、相手の懐《ふとこ》ろへおどりこんだ。この捨身の反撃に、むこうも拳銃を手から落として、あとは組みつほぐれつの死闘だった。  鉄拳がうなり、肉体と肉体のぶつかりあう鈍い音が何度となくくりかえされた。  ——英策さん!  竜子は何度か猿ぐつわの中で、この思わぬ救援者の名を呼んだ。  死闘は数合、数十合——この部屋から廊下へ、そしてもとの広間へと続いた。オーケストラの糸を一瞬に切りはなしたような、何ともいえないぶきみな音がひびいたのは、どちらかが広間の片隅のグランドピアノの上にたたきつけられたのだろう。  竜子には、何年、何十年かに思われた何分かが過ぎた。そして、眼の前にあらわれたのは大前田英策。唇や鼻のあたりにべっとり血がにじんでいるが、案外元気な声で、 「竜子さん、間にあってよかったな」     一四  いままでの竜子の姿とは反対に、洪秀明の方が、今度は広間の椅子に縛りつけられてもがいていた。  縄《なわ》をとかれた竜子は、じっとそのあわれな姿を見つめたが、ふしぎなことに、この男がたった今自分の命をとろうとしていたのだということに対する恐怖も怒りも、心に浮かんでは来なかった。きっと全身の神経という神経が完全に麻痺してしまったせいだろう。 「竜子さん、君にこれを渡すから、奥につながれている村田さん親子の縄をほどいてあげてくれたまえ。僕はこれから警察へ連絡をしてくるから」  立ち去ろうとした英策を、洪秀明はあわれな調子で呼びとめた。 「待ってくれ。おれの今生《こんじよう》の思い出に、たった一つだけたのみがある」 「何だ?」 「あの娘を、康子を一人でここまでつれて来てくれないか」 「なぜだ?」 「あの子は、おれの娘なんだ。十七年前に事情があって別れたっきり……もう、この世にはいないだろうと、あきらめていたが、ようやくめぐりあった時には、母親の方はもう死んで……」  英策と竜子は眼と眼を見あわせた。 「それじゃあ、あの子をナイトクラブへ呼び出した、あの幸運の手紙はやっぱり貴様の細工か?」 「そうなんだ。自分の娘が、あんなあわれな恰好を、あんなあわれな暮らしをしているのかと思うと、がまんが出来なくなって……」 「馬鹿!」  竜子も驚いたくらいの英策の大喝だった。 「え……」 「おれは貴様にいったばかりじゃねえか。金、金、金と、人間は血眼になってその尻《しり》ばかり追い廻すが、この世の中にゃあ、金で買えねえ物がいくつかあるとな。幸福というものもその一つだ。お前が出した百万円や、殺人の現場から持ち出した宝石を受けとって、仕合わせになれる娘だったら末路はどうせこんなざまだぜ」  英策はぐっと玲子の死体を指さして、 「おれが、こうしてこの家を探しあてたのも、こうして先廻り出来たのも、決して金を湯水のようにばらまいたためじゃあねえ。おれはやくざでも何でもないが、いよいよとなると先祖以来の陰徳で算盤《そろばん》なんかはじきもしねえで動いてくれる人間が何人かいるんだ。その人間たちが、いろんな役者のあとをつけ廻して、この家を見つけてくれただけよ。ただ、それだけの話なんだ」  一呼吸して、英策はつづけた。 「お前もそうなら、ここに死んでる二人もそうだ。金のために眼がくらんで、この世の中を動かしている、もっと大事なものを忘れてしまったんだ。おれの知ってる気違いで、本当に現金を二億円持っているやつがいる。こいつの気が狂った理由を教えてやろうか。どうして、自分の財産は二億円で五億円じゃないんだろうと、毎日何十度か何百度か数え直していたのが原因だそうだ。これがあたりまえの人間なら、千円と二千円の違いはぴんと頭へ来るが、二億と五億の違いなんかどうでもいいことだ。東京から横浜と静岡とどっちが近いか——ということはわかっても、地球から、海王星と天王星がどっちが遠いか分らねえのと同じ神経だ。お前たちも、あんまり星の距離ばかり計算して、足もとが分らなくなっちまったんだろうな」 「英策さん……」  と竜子が声をかけたのは、かげながら一目あわせてやってはどうだ——という意思表示だったろうが、英策はまた首をふって、 「これが芝居か浪花節《なにわぶし》なら、捕方《とりかた》一同後ろをむいて、はなをちゅーんとすすりあげるところだろうが、おれはそんなまねはごめんだぜ。それだけの親心があったなら、なぜ十七年もほっておいた。なぜその前に本腰を入れて、わが子を探そうという気にならなかったんだ。考えて見ろ。お前は殺人犯人だ。暗黒街の帝王だ。そのお前の血が半分は、あの子の体の中にもめぐっているんだぜ。お前が親だと名のったら、その血がどんなさわぎ方をすると思う。悪いことはいわねえからあきらめろ」  洪秀明は頭をたれて、かすかなすすり泣きを始めた。廃墟《はいきよ》のような、この宏大《こうだい》な邸宅に、その声はまるで二つの死体からぬけ出た幽鬼《ゆうき》のささやきのようにこだましていた。 「ところで、竜子さん、君はどうしてこんな所に捕まったんだい」 「犯人の正体を発見したためよ」 「どうして?」 「あの包みの中にあったものが本物の宝石なら、戸塚さんが殺された時、身につけていたものは模造品の方でしょう。それを、わたしに見せてくれたこの死んだ男が、犯人だと悟ったのよ」 「なるほど、おツムのはたらきは、なかなか鋭くていらっしゃるが、女賢《さか》しうして何とやらいう諺《ことわざ》もあることだ。これからは、精々ノーテンファイラーになる修業を積むのが肝心だろうな」  英策はもう一度竜子に顎《あご》をしゃくって合図した。われに返った竜子は何のためらいもなく、村田康子の監禁されている部屋へ急いだ。     一五  この事件が終わって二、三日後のこと、大前田英策と川島竜子は、またある所で顔をあわせた。  考えて見れば命の恩人のことだから、どんなに鄭重《ていちよう》な挨拶《あいさつ》をしてもいいはずなのに、竜子の口の悪さといったら、前に一層輪をかけていた。 「ねえ、英策さん、あなたの腕っ節と度胸だけはわたしもたしかに認めるわよ。ただ惜しむらくはオツムの方が少しノーテンファイラーだわね。そんな探偵さんに助けられたかと思うと、情けなくって涙が出るわ」 「そのはずみに廃業したらどうだい。故郷の親兄弟も松隈警部補も、肩の荷をおろしたようにほっとするぜ。僕もこれからよけいな世話をしなくてすむ。足弱を相手に二人三脚をするようなもんだからな」 「ちょ、ちょ、ちょいと。足弱だなんてよくもいったわね。いずれは眼に物見せてくれるから」 「そんな冗談はぬきにして、どうだい。一つ僕と結婚しないか?」  竜子はじっと英策の顔を見つめた。一瞬、沈黙がつづいたかと思うと、竜子は鼻の頭をしかめて見せて、 「いいーだ。恩を着せて、結婚を申しこむなんてそんなの古いわよ。男女同権、貸借が帳簿から消えた時に、あんたの申しこみは十分に考慮いたします。それまではだめ。こんな借金を背負って結婚した日には、永久にわたしは奴隷《どれい》にならざるを得ないわよ」 「どうもこの貸金は返してもらえそうもなさそうだな。どうせ、こちらは無利息無期限無催促のつもりだが」 「そんなのないわ。ちゃんと利息をつけて返すわ。これからこんなことがあったら、二度ぐらいあんたの命を助けてあげる」  大前田英策は、にたりと唇を曲げて笑った。   暗黒街の逆襲     一 「川島さん、君は合気道《あいきどう》というものを知ってるかい?」  妙なところで、大前田英五郎五代目、私立探偵大前田英策は、同業女探偵の川島竜子にむかってたずねた。  いわゆる『暗黒街の帝王』事件として知られる、戸塚綾絵の殺害事件に、この二人は命をかけてはりあった。その結果、廃屋に監禁された竜子は、英策のために、命を救われるような結果となったのだが、女ながらもこんな職業に飛びこんで、全身意地と闘志の塊のような竜子は、こういう結果がえらく気にくわなかった。  といって、逆に英策の命を助けてやるような機会はいつまで待っていたらやって来るのか分らないし、それまで借金を背負っていては気も重いので、とりあえず御礼の御馳走《ごちそう》だけでもしておこうと、今夜Aホテルの夕食に彼を招待したのである。  その時、ディナーのコースが一通り終わって、コーヒーが出たと思ったら、いきなりこんな質問をあびせられたのだ。 「そうねえ……」  相かわらずの意地っぱりで、竜子は知らないといいたくなかった。 「合気道というと、気が合う道? いやよ、こんなところで話を落としたりしちゃあ」 「ははははは」  英策は大きく口を開けて、恐ろしく男性的な豪快な笑いをもらした。 「こっちは武術の話をしようと思っているのに、すぐそういう妄想《もうそう》を思いうかべるとは、M過剰だと自分でいってるくせに、実のところは女性ホルモン過剰症だな。どうだい、その症状の中和のために、僕と結婚するつもりはないか?」 「また始まった。あなたの十八番が。そんなせりふを十人の女に持ちかけて、誰でも手ごたえがあったのと結婚するつもりなんでしょう」  竜子は風を柳にうけ流したが、実のところは少し赤くもなっていた。自分のとんでもない受け答えにも腹がたったし、相手の無神経と思われるほどの図太さにも、いささか反撥《はんぱつ》を感じたのだ。  竜子は三十にもならない未亡人、実家は九州切っての炭鉱主だし、親兄弟からもちゃんと再婚をすすめて来るのだが、勝気で教養があって理知的な竜子には、どんな候補者でも馬鹿に見えた。よほど深遠な学識と英邁《えいまい》な理想と高潔な人格の持主でなければ二度と結婚しないわと、啖呵《たんか》を切っていたのだが、いま眼の前に坐っている大前田英策は、そういう意味では実に不可解な存在だった。  一世の侠客《きようかく》、大前田英五郎の血筋をひいているだけに、背広を着て一見りゅうとした紳士には見えるが、どうも凄《すご》みがききすぎる。闇屋か、逆に暗黒街の顔役のようなタイプなのだ。知性が全然感じられないというわけではないが、いわゆるインテリらしい臭みは微塵《みじん》もなかった。  どこか一本抜けているようで、どこか一本別な筋金が入っている。これまで、こういう型の男性には一度もあったことはなかったが、竜子もなぜか、心の奥で彼に激しく惹《ひ》かれるものを感じていた。  だが、そのことはおくびにもあらわさず、 「合気道って武道の一種なの? やあーっと気合をかけてとび上がるの?」 「そうじゃない。柔道、空手《からて》、それにいろいろの武術の粋《すい》を加えてあみ出した武芸だが、はたから見たら、柔道と違ったところは見えないだろうね。ただ、敵の動きに自分の体をあわせて行く。敵の力を利用して、逆に敵を倒すというのが眼目で、こちらから力を出して攻勢をとるものじゃない。そこが柔道や何かとは違うんだね」 「それがどうして……」 「この間の事件でも、君のやり方を見ていると、どうも自分からわざをかけすぎるね。それだと、とんだ失敗をまねかないとも限らないから、参考までに」 「わたしの探偵法は柔術流で、あなたの探偵法は合気流だというのね。それには異論もあるけれど、まあ、敗軍の将は兵を語らずだから、御忠告はありがたく承わっておきますわ」 「今日は案外おとなしいね。それからもう一つ、合気の極意というのを公開すると、大勢の人間に一時に包囲された時、君ならどうする?」 「まず、前のやつの眼を見るわ。後には眼がついていないもの」 「それじゃあいけない。眼を見ては、そいつの動きにさそわれて、後のやつに襲われる。合気道では、そういう時に眼を使わず、五体で動きを感じるんだ。五体というのをいいかえれば心といってもいい。まあ、光学兵器とレーダーの違いだね」 「おっしゃいましたわね。太平洋戦争の勝敗は、レーダーの有る無しできまった、というんでしょう? ところであなたのレーダーは、いまどんなことを感じるの?」 「何か事件が起こりそうだ。明日といわずに今晩中に、そのきっかけが起こりそうだ……」  その予言は、あやまっていないようだった。二人がまだコーヒーを飲み終わらないうちに白服のボーイが名刺を片手に食堂へ入って来たのだ。竜子の前に小腰をかがめて、 「川島先生、このお方がロビーでお待ちになっておられます」  竜子は、名刺に眼をおとし、それから英策の方に不審そうな視線を投げて、 「大前田さん、まさか、あなたの芝居じゃないでしょうね? あなたは占いに転向しても結構飯が食えそうよ」 「あいにく、僕にはそんな芝居っ気がないんでね。どれ、見せたまえ」  英策はその名刺をうけとって、   西宮市川東町一ノ三九 吉原富美子《よしわらふみこ》  と印刷された名前をじっと見つめていた。 「どうも今晩は御馳走さま。何だったら、ダンスか何かにさそおうかと思っていたんだけれど、商売のお邪魔をしちゃ何だから失礼するよ。また、何か事が大きくなって、僕の力が入用だったら、いつでも連絡してくれたまえ。すぐ飛んで行くから」 「あんまりそういう目にはあいたくないものね。今度こそ、あなたの命を助けてあげて、借金を返そうと思っているんだから」  二人のライバルは眼を見あわせて笑うと、同時に煙草《たばこ》を捨てて立ち上がった。  ロビーへ入ると、二十七、八の凄《すご》い美人がよって来た。 「川島先生でいらっしゃいますか。わたくし吉原でございます。事務所へお電話いたしましたら、こちらだとうかがいましたので」 「まあ、おかけなさいな」  と竜子は相手に椅子をすすめて、大前田英策の方を見つめた。英策は、いわゆるレーダーを働かせて、どういう判断を下したのか、ちょっと立ち止まって煙草に火をつけると、ロビーの隅にあるガラスばりの酒場へ入って行った。 「お話というのをうかがいましょうか?」 「はい、実は妹のことなのでございます。行方不明になりました妹を、先生のお力で探していただきたいのでございます」 「たずね人ですの?」  と、竜子は気のぬけたような返事をした。そういうような御用件なら、警察へでもいらっしったらと、口のあたりまで出かけたが、相手の次の言葉を聞いて、ぐっと固唾《かたず》といっしょに言葉をのみこんでしまった。 「何しろ、相手は和田倉健吾《わだくらけんご》と申しまして、戦争中までは大陸を股《また》にかけて暗躍したといわれる顔役で、いまも何をしているか見当がつきません。妹も、その男にだまされて、家出をしたのでございます。男はたしか東京にいて、その居場所も分っておりますが、妹の方はどうしましたか……ひょっとしたら、殺されたか、外国にでも売りとばされたのではないかと思うと、いても立ってもおられないのでございます……警察の方へも、お願いしようかと思いましたが、何しろ証拠というものがございませんので……」  竜子は、ガラス戸越しに、向うをむいて坐っている英策の肩幅の広い背中を見つめた。  いわゆる合気道的レーダーで、その視線を感じたのか、英策はこちらをふり返って、にやりと笑った。  挑戦的なその視線に、竜子は激しい闘志をかきたてられて、 「そうですわね。おひきうけいたしますけれど、ここじゃあ人目があって、くわしいお話もうかがえませんから、わたくしの事務所まで参りましょう」  と答えてしまった。     二  虎《とら》の門《もん》近くの事務所まで帰って来て、竜子はいろいろと、富美子の話を聞きとった。  それを要約すると、大体こんな事になる。  西宮というところは、酒造の盛んなところだが、吉原家というのはその中でも『富嶽《ふがく》』という銘酒の醸造元で、近所では有名な資産家だというのだった。  先主の喜久造《きくぞう》には、富美子と富士枝《ふじえ》との二人の娘しかなく、姉の富美子に利一《りいち》という婿をむかえて家をつがせたのだが、富士枝は大阪へ出て来て、ある会社へつとめているうちに、そこの男と知合いになり、かけ落ちするように家を飛び出したのだということである。  何しろ田舎《いなか》のことだから、家名ということも考えたりしたあげく、世間には東京の叔父《おじ》のところへ遊びに行っているとつくろって、あちらこちらの知合いへ内証で、問いあわせていたというのだった。  そこへ突然、二、三日前、富士枝から手紙がとどいたというのである。その内容は、 「私はいま、東京の世田谷区桜ガ丘町におります。健吾は恐ろしい男です。もう、これ以上一緒にいてはどうなるかも知れません。お姉さま、早く助けに来て下さい」  という走り書だったというのだった。  竜子は話がここまで来たとき、ちょっと眉《まゆ》をひそめた。 「妹さんは、たしか二十七だとおっしゃいましたわね。これが十五や十六の小娘ならともかく、二十すぎのしかも教養のあるお嬢さんなら、警察の方では、だまされる方にも、いくらか落度があるということになりますわね。それに、こんな手紙を書けるくらいだったら、どうして警察へかけこむなり、逃げ出してどこか知合いの家へでも……」 「わたくしも変だと思いました。それでございますから、上京して、その家へたずねて行ったのでございます」 「あなた、お一人で?」 「はい」  竜子も内心では、女の勇気に舌をまいた。 「それで、あの男にもあいまして、いろいろと詰問してやりました。そうしたら、あの男は、にたにた奇妙な笑いをうかべて、  ——そりゃあ僕たちは合意の上で、しばらく同棲《どうせい》することにしたんですよ。何しろ、僕はこういう男だから、まともに結婚を申しこんでも承知してくれそうもないと思ったんです。ところが、富士枝さんという人は気がかわりやすくて仕方がありませんねえ。ここへ来て、二週間にもならないうちに、もう逃げ出してしまったじゃありませんか。僕は、てっきり、お家へ帰ったとばかり思っていましたよ。  と空っとぼけてるじゃありませんか」 「それはいつ?」 「今日午後のことでございます」  竜子はだまって眼をとじた。たしかに、富美子の言葉には彼女の鋭い職業意識を、ちくりと刺戟《しげき》するものがあったのだ。 「調べて見ましょう。でも、連絡先は?」 「日暮里《につぽり》駅の近くの『かど屋』という宿におります。電話番号はこれでございます」  富美子はメモ用紙に数字を書いて渡した。  竜子はそれをうけとって、 「それでは、事情の分り次第、御通知いたします。二日ほどお待ち下さい」  と相手を送り出すと、自分はすぐに自動車で、桜ガ丘へとんで行った。  その車をおりたとき、竜子はしまったと舌うちした。ハンドバッグを開けたとき、護身用のコルトの拳銃《けんじゆう》がないことに気がついたのだ。  どこか、机の引出にでも、しまい忘れたのだろうと思いながら、とりあえず、家の様子だけでも偵察しておこうと思って、その辺一帯探し歩いた。  富美子の書いてくれた地図は、ほとんど出たらめに近かった。興奮しているからむりはないと思ったが、探し出すまでには一時間近くもかかった。  やっと、目的の家を探しあてて、その前を通りすぎたとき、竜子は玄関の扉がななめに半ば開いているのに気がついた。中の電燈もつけっぱなしになっていて、玄関の側《そば》の灯《あか》りが、和田倉という三字の標札を照らし出していた。  竜子は立ち止まって耳をすました。どこからか聞きおぼえのある音楽が流れていた。それもたしかにこの家から——ショパンの葬送奏鳴曲。  ふしぎな戦慄《せんりつ》が、竜子の全身を襲って来た。彼女は、玄関に半身を入れて、 「御免下さい。御免下さい」  とたずねて見た。  答えはなかった。ただ、自動停止装置のついた装置で、LPでもかけていたらしく、音楽はぷつりととぎれてしまった。後には、死のような沈黙が続くばかり……  足もとを見て、竜子は思わず声をのんだ。玄関の廊下に落ちている拳銃に気がついたのだ。自分の持っているのと同じコルトなのだ。  竜子は、われを忘れて、この家にふみこんだ。自分の行動が、厳密にいえば、家宅侵入——あるいはそれ以上の罪を構成するかも知れないということは、その時はもう、全然念頭にもなかったのだ。  半開きになっている玄関の近くの洋間の扉を開けて、竜子は半ば予想していたこととはいいながら、思わず低い悲鳴をあげた。  一人の和服の男が倒れている。こめかみのあたりの弾痕《だんこん》から、たらたらと、まだ生あたたかい血潮を床に流しながら。  よろめいて、竜子は部屋を出た。死体を見て倒れるほどの脆弱《ぜいじやく》な神経の持主ではないが、ふしぎな疑惑がその時頭をかすめて来たのだ。廊下までもどって、ハンケチで手を包み、その拳銃を拾い上げて、番号を調べて見た。  それはたしかに、竜子自身のものだった。  われを忘れて、彼女はこの死の家をとび出すと、大前田英策の家へ電話をかけた。 「おや、これからまたダンスへでも行こうというのかね?」 「そうじゃないのよ。舞踏へのおさそいでなくって葬送行進曲……殺人事件の共同調査をお願いしようと思ってね」  自分でも、何をいっているのか分らなかった。本当ならば、警視庁なり近くの警察なりへ、すぐに連絡しなければならないところを、こうして彼を呼び出した自分の気持が自分でもふしぎでたまらなかった。 「殺人事件? 今夜の女に関してか?」 「そうなのよ。来て下さる?」 「警察へはまだ知らせてないの?」  二、三秒、短い沈黙が続いたかと思うと、 「場所は?」 「世田谷の桜ガ丘町——千歳船橋の電車の駅の近くの公衆電話からかけてるの。この駅まで来て下されば現場へ案内するわ」 「行こう。すぐこれからかけつける」  大きな息吹きとともに、力強い返事が竜子の耳をうって来た。     三  死体を見つめて、英策は両腕をくみながらしばらく無言のまま仁王《におう》立ちに立っていた。 「なんだかおかしい、おかしいと思った……まさか、こんなことになるとは思わなかったのだが」  ひくいひとりごとが、ぶつぶつ唇をもれていた。と思うと、すぐ竜子の方をふりかえって、 「その葬送奏鳴曲は何分ぐらいかかる?」 「そうねえ。わたくしも時間をはかって見たわけじゃないけど、LP片面だとすると、精々三十分が限度だわ」 「それなのに、君が一時間近くも、このあたりをうろうろ探し廻っていたとすると、その間のアリバイはたたないわけだ」 「あなたは何をおっしゃるの?」 「君だって、そのことは分っているだろう。ただ、それを口に出すのが、自分でも恐《こわ》くてしかたがないんだね? この男を殺したのは君の拳銃、それは死体の弾丸と拳銃とを比較すれば鑑識では一目でわかる。銃には君の指紋がついているだろう。おまけに、しょっちゅう射撃の練習をしているはずだから、爆薬の微粉が君の顔や手についていて、ヨード澱粉《でんぷん》反応で最近|射《う》ったことはすぐにわかる」 「あなたは……あなたは何をおっしゃるの?」 「すこぶる常識的な判断、警視庁流の断定では、君がこの男を殺した犯人なんだ」 「でも……」 「無実の罪だと証明出来ればもうけものだよ。なるほど君が今夜ホテルで、あの女にあったことだけは、僕もホテルの従業員も証明しよう。だが、その話の内容まで証明は出来まいね。その事務所での話の途中で、君はトイレにたたなかったか?」 「ええ、一度だけ、二、三分……」 「それでも君のハンドバッグを開けて、ピストルを盗み出すには十分だ……それも警察では信用しまい。いま、駅からここまでやって来る途中考えたが、君の話してくれたような物語を信用してくれるような警察官はいるかねえ。その女がつかまらないかぎり……」 「わたくしが擬似犯人になってしまったというわけね?」  竜子も今度の自分の役廻りには、苦笑せざるを得なかった。 「でも、何だって、わたくしを?」 「君をよっぽど恨んでいる人間が、どこかにいるんじゃないかなあ。おたがいに、正義のために邪悪と戦っているつもりでも、それを恨みに思う人間はどこかに何人かいるだろう。或《ある》いは暗黒街からの反撃、暗黒街の逆襲なのかも知れないよ」 「それだったら、わたくしを一思いに撃つ方が、ずっと手っとり早いでしょうに……」 「そこが一石二鳥の計——その女は、きっとこの男を殺さなくっちゃいけない何かの理由があったんだろう。だから、事件に君をまきこんで、自分はその間に逃げきろうと……」  英策はちょっと言葉をのんだ。 「そこまでは僕の判断だ。これからどうするかは君自身の判断だ。どうする。警察へとどけて出るか?」 「あなたがわたくしの立場なら?」 「この拳銃だけもらって帰る。そうして知らない顔の半兵衛をきめこむね。そのアリバイは、大前田英策という君にぞっこん惚《ほ》れこんでいるノーテンファイラーに作ってもらう。君がぴんぴん大手をふって歩いているということを知ったら、敵はどういう手をうつか。そのまま、じっとしていられるもんじゃないと思うが、その第二第三の攻撃を利用して、合気の極意で切り返す」 「まあ……」  竜子はちょっと考えこんだ。たしかにそれは冒険だが、これは彼女の性格にはぴんと来るものがあった。正当防衛の立場ならともかく、自分が殺人の容疑者として、警察官の取調べをうけるなどということは、彼女の自尊心が許さなかった。 「そうするわ。あの女を自分の手で捕えなきゃあ、わたしも胸がおさまらないわ」 「よし、それで話はきまった」  英策はぐっと右手をさし出して、 「しかし一言ことわっておく。僕は決して、君の弱みにつけこんで、君をどうしようなんていうけちな料簡《りようけん》は持っていないからね。結婚の申しこみは、この事件が解決するまで、一応撤回する。敢《あえ》て紳士とはいわないが、これが男としての仁義だ」  指紋のついていそうなところを一応|拭《ぬぐ》うと、幸いに二人は誰《だれ》にも見とがめられずに、外へ出た。竜子が自分で運転しているルノーで大前田英策の家へ来ると、英策は時計を見つめながら、 「君は事務所を出かけて、まっすぐここへ来たことにする。わかったね」 「いいわ。今夜のところはあなたまかせ」 「それじゃあ、君が帰る前に、一応調べられるところを調べて見よう。君は電話帳でそのかど屋という家が本当にあるかどうかを調べてくれ。僕は西宮へ連絡する」  英策がすぐに、西宮への電話のダイヤルをまわすうちに、竜子はぱらぱらと電話帳をめくりながら、 「あるわ。ただし、日暮里の喫茶店」 「そんなことだろうと思っていた」  英策はハイボールを竜子にもすすめ、 「君は家へ帰らない方がいいと思うな。どこかのホテルにでも泊って、しばらく姿をかくしたら」 「ええ、いいわ。どこか、つれこみ宿じゃない堅気の宿屋へ泊って、すぐにこっちへ連絡するわ」  そのうちに、電話がつながった。英策は四、五分話しつづけていたが、竜子の方をふりかえって、 「やっぱり西宮市には、富嶽とかいう酒の醸造元はないそうだ。後はたしかめる必要はあるまい」 「ええ、ないわ」  英策はまた電話にむかって、 「岡本《おかもと》君、ありがとう。恩に着るよ」  といって、受話器をかけた。 「岡本さんって、どこか西宮の親分さん?」  英策は大きく首をふって、 「そうじゃない。この家の前の持主だ」 「御親類?」 「違う。実はこの家を買いとる時、半金しかそろわなくってね。一つ、大前田英策という男を信用して、後金は半年待ってくれないかと、乱暴なことをたのんだら、むこうは笑って、よござんす。後金は損をするかも知れないけれど、これで一人の友人が出来たらお安いものですよと。これには頭が下がったね。もちろん金は期限前にぴしゃりと払ったが」  男でなければ理解の出来ないような話に、竜子は何となく心を打たれる思いがした。     四  その翌日の朝刊に、事件の記事が出ていることを発見した大前田英策は、何食わない顔をして警視庁へ友人の松隈警部補を訪ねて行った。  もちろん、警部補の方は、彼がこの事件でこんな役割を演じたことを知っているわけはない。いつもなら、その目的を疑って、いろいろ質問してかかるのだろうが、今度は逆に、 「なるほど、和田倉健吾という人間は、上海《シヤンハイ》から大陸一帯を股《また》にかけて、いろいろあばれまわった人間だということだから、君なんかみたいに顔の広い男は、どこかで知りあっているだろうな。いったいどこであったのだ?」  と、何か情報でも提供しに来たのかというような顔色だった。 「おあいにくだが、そういう点ではお役に立ちそうもないな。ただ、新聞を見て、興味を持ったから、それでこうして訪ねて来たのだ」  警部補は現金に、たちまち詰まらなそうな顔をして、 「そうか。大したことはないよ。死体の発見は昨夜十時ごろ、発見者はパトロール中の警官だ。死亡推定時刻の一時間ほど過ぎに、男女二人づれが玄関を出て行くのを見たという目撃者がいた。情婦か内妻か、勝子《かつこ》という名の女がいて、それがべつに情夫を作り、二人で男を殺して逃げたという見方が強い」  と簡単に事件の内容を説明してくれた。 「そのアベックが、僕と川島君の二人づれだったといったらどうする?」 「ふざけんな。とんでもない冗談はよしてくれ。それとも自首して出たというのか?」  警部補が眼を怒らせたところを見ると、昨夜の真相はまだ知れていないようだった。 「それで、動機は? 痴情か、怨恨《えんこん》か、物とりか?」 「はっきりしないが、家宅捜索をした結果、麻薬がいくらか発見された。本人がその中毒患者でないことだけはたしかだから、何かその取引のルートにからんで、その勢力争いとでもいったようなものがあるかも知れない」  それ以上はいってくれなかった。いや、恐らくそれはその時松隈警部補の知っていた、すべての情報だったろう。  だが、今のところ、英策にはそれだけの知識で十分だった。  彼は警視庁を出るなり、すぐに池袋へ車を飛ばした。西部劇に出て来るような開拓都市が、数年間に近代的な大都市に変貌《へんぼう》して行ったような、その途上の姿が、いまのこの町の実態なのだ。ある意味では原色的な、ある意味ではドライなこの町には、奇妙な店もあれば、奇妙な人々も住んでいる。  その一軒の『トスカ』という喫茶店へ、英策はつかつかと入って行った。いかにもチンピラやくざらしいアロハの男たちが、一斉に椅子《いす》から立ち上がり、そして英策の気魄《きはく》にはじきとばされたように左右に開いて道をあけた。英策はその動きには眼もくれず、奥のいかにもすれたような女をつかまえて、 「山本《やまもと》君はどこにいる?」 「あなたは?」 「大前田英五郎五代目、同姓英策といってもらえば分るだろう」  眼も凄く、態度も常人ばなれしているから、初めは警察官ではないかと疑ったらしいこの女も、安心したように、アロハの男たちに眼くばせした。 「これは大前田の親分さんで?」 「手前どもが御案内いたします」  と男たちはあわてて頭を下げたが、英策はかるく会釈を返すと、一瞬に次の作戦を頭に描いていた。  この店が、この街の付近に蠢《うごめ》いている夜の女や、不良の仲間に、ヒロポンや麻薬を売りさばいている小売業者だということは、英策も前から聞いていた。その実権を握っているのが山本|耕治《こうじ》だということも知っていた。こんな職業を始める前に、一度だけ顔をあわせたことはあるが、もちろん現在の住所も知らない。どういう出方をされるかも皆目見当がつかなかった。  店の横の小路を入り、右に左に幾曲りして、案内役のアロハ族はちょっと立ち止まった。 「ここでしばらくお待ちなすって。手前がいま連絡して参ります」  といって、かけ出したが、帰って来た時にはすっかり態度も変わり、物凄く人相の悪い二人を後にしたがえていた。  その二人のポケットにつっこんだ手は、拳銃をかくしていると睨《にら》んで、 「人がひさしぶりに丸腰で、旧交を温めようと思ってやって来ているのに、ハジキ持参のお出迎えとは鄭重きわまる御挨拶だな。山本耕治という男は、もう少し、話が分るかと思っていたが」 「何だと?」  めらめらと殺気は燃やしたが、さすがに撃とうとはしなかった。 「歩け!」  という声を背中に聞いて、英策は悠々《ゆうゆう》と大手をふって歩き出した。  そのまま奇妙な行進が続き、角を曲って二軒目のしもたや風の家に通ると、そこにはいかにもやくざの親分らしく、鷲《わし》のように鋭く眼を光らせ、頬《ほお》のあたりに刀傷のある男が腕組みをして洋風の応接室で待っていた。 「大前田か。一別以来しばらくだったな」 「おたがいに変わりがなくて何よりだった」  二人の視線は切りむすび、腰をおろすのもほとんど同時のことだった。 「それで用事というのは何だ?」 「昨夜、桜ガ丘で殺された和田倉健吾という男のことについて話を聞きに来た」 「和田倉健吾? そんな男は知らねえな」 「知らないはずはないだろう。麻薬の方の取引でも、かなりの大手筋だと睨んだが」  ちょっと無気味な沈黙があった。と思うと相手はかすかな嘲笑《ちようしよう》さえ浮かべ、 「大前田、お前はどうしてそんな事を聞く。どうしてそんな問題に嘴《くちばし》をつっこむんだ?」 「ある女に惚れてしまったからだ。べつに君たちのしている商売に邪魔をしようというわけじゃないが、その女を助けるためには、やむを得ない」 「お前もずいぶん物好きだな。いったいいくつの命のストックがある? 警察の犬になり下がったかと思って軽蔑《けいべつ》していたが、今度はまるで西洋の映画に出て来る騎士みてえに、女を助けに命を投げ出そうとは恐れいった。まあ、昔なじみに今日の所は助けてやるから、これで帰んな」 「何もいわぬか?」 「あたりまえだ。どんな商売にだって職業上の秘密というやつがあるぜ。そいつは何も、医者や牧師や公務員の専売特許じゃないと思うな」  この相手が一筋縄《ひとすじなわ》で口を割るとは、英策も最初から思っていなかった。ただ、彼のいわゆる心のレーダーは、この時ぴりぴりと相手の体から発射されるものを感じていた。決して山本耕治と和田倉健吾の間には、何の交渉もなかったはずはない。同業者仲間の仁義というよりは、もっと深い関係があっただろうということを、彼は一瞬に悟ったのだ。 「よかろう。知らないというものを、これ以上邪魔しても失礼だ。それではいずれあらためて」  にこりと笑って立ち上がり、部屋を出ようとした英策を、山本耕治は呼び止めた。 「待て、大前田、お前はいまの意趣返しに、おれのことを警察へ密告するつもりじゃねえのか?」 「そういうちっぽけなことは考えても見ない」  英策は泰然自若として、 「むかしの友達のところへ珍しく訪ねて来たのに、こういう取りあつかいをうけたのは残念だが、考えて見れば、それもそっちの良心のあらわれだろう。やはり、自分の気持をふり返って見て、悪い事をしているなと思えばこそ、おれとあうのにそうやって、ピストルを準備しなくちゃいけないんだろう。おれはいま、何の悪事もしていないと思えばこそ、こうして空手で歩けるんだ、密告なんかした日には、そっちと同じ立場まで、自分の身を落とすことだから、まあ、毎日毎晩、ピストル持参でもなければ歩けなくなるだろう」 「うん」  この一言が胸にぎくりとこたえたのか、山本耕治はとたんに黙りこんでしまった。     五  その反応は、意外なくらい早く起こった。  それから方々かけ廻って、英策が事務所に帰って来ると、若い女が待っていた。  雪村静枝《ゆきむらしずえ》と名のったが、英策も最初はぎくりとした。年はまだ二十七、八だろうが、全身から発散される奇妙な色気といい、鬼気といい、眼や鼻の一つ一つはともかく、顔全体の印象といい、あの吉原富美子と名のった謎《なぞ》の女に、ふしぎなくらい、よく似た印象を与えたのである。 「御用件は?」  前口上も何も一切ぬきにして、英策がたずねると、相手は子供が泣き出すときのような表情で、 「先生は今日、山本一家へなぐりこみをおかけになったそうですね。そのことにつきまして、お願いがあって上がりました」 「なぐりこみというのは大げさですな。旧友のところへ、手ぶらで訪ねて行ったのに、むこうが妙にかんぐって」  英策はかすかな苦笑とともに、煙草の煙で環を作りながら、 「あなたはあの一家と、何か関係のある方ですか?」 「いまのところは大して……ただ、先生に姉の行方を探していただきたいんです」 「たずね人?」  英策はちょっと奇妙な不安に襲われた。最初のたずね人の事件では、竜子がああして、殺人事件の渦中にまきこまれてしまった。今度のたずね人はどうなるのだろう?  だが、そのような感情はおくびにもあらわさず、英策は女の話に耳をすましていた。  静枝と姉の佳枝《よしえ》は、トスカの店が普通の喫茶店だったころ、そこに二人で働いていた。ところが、山本耕治はあの店を買いとる前後から、佳枝に対して情欲のほむらを燃やしていたらしい。店を居抜きで譲りうけても、二人はそのまま働かせることにしたのだった。  姉の佳枝の方には、生来|妖婦《ようふ》的なところがあった。わかいころから硬派の不良で、支那《しな》へ行って馬賊の女頭目になるというのが、少女時代の夢であり、あこがれだったらしい。  だから、いつの間にか、耕治と佳枝がただならぬ仲になったとしても、男だけを責めるわけにも行かないのだが、ここに一つの奇妙な事件が起こった。というのは—— 「わたしも、こんな馬鹿げたことが、世の中にあるとは思いませんでした」  と静枝は、声をふるわせながら、 「二、三か月前、ある場所で、大変な麻雀《マージヤン》の勝負があったのでございます。人物は、山本耕治、和田倉健吾、それに犬上蔵吉《いぬかみくらきち》と近藤秀作《こんどうしゆうさく》……御存じでいらっしゃいますか?」  英策は黙ってうなずいた。和田倉健吾はべつとして、後の三人はそれぞれ、東京の暗黒街に隠然たる勢力を占める親分たちなのだ。 「わたくしたちも、ちょうどそばにおりましたが、その時とんでもないはずみで、勝負に勢いがつきまして、大変な賭《か》けになったのでございます。普通の一点十円などという賭けではなくって、一番勝った人に、ほかの三人が大変なものを提供するという……犬上は家、近藤秀作は時価何百万といわれる宝石、そして和田倉は大量の麻薬を……」 「山本は何を?」 「あの男は、わたくしの姉を賭けたのでございます。それにいくらか現金をつけて」  その勝負は、四人の気合いを反映するかのように荒れに荒れた。東風戦には近藤がトップに立ち、南の風は山本に幸福をもたらし、西風戦が終わるころには、彼が二千五百点ぐらいリードしたまま北風戦に入ったのである。 「ところがどうでございましょう。最後の土壇場へ来て和田倉が、親のとき、満貫を打ちこんだんでございます。それもまた、こともあろうに九面待ちの九連宝塔を」 「九連宝塔……」  およそ麻雀のあらゆる手の中でも、稀有《けう》の大役といわれるこの手が出たのを見て、和田倉健吾が会心の微笑とともに、パイを倒したときには、ほかの三人も思わずあっと声をあげたということである。  ただ、最初に落着きをとりもどしたのは、山本耕治だった。彼は剃刀《かみそり》のように磨《と》ぎすまされた冷たい笑いとともに、 「九連宝塔の手がついたら死ぬというな」  とつぶやいたという。  暗黒街では、男同士の言葉は絶対的なものなのだ。死を覚悟しなければ破れぬほど厳しいものなのだ。このようにして、和田倉健吾は家を手に入れ女を手に入れ、そして恐らく宝石と相当の金額を手に入れた。ただ運命の九連宝塔は、同時に悲劇的な死を彼にもたらしたわけである。 「それでは、勝子という名の女、被害者と同棲《どうせい》していた女が、あなたのお姉さんだというわけですね」 「そうなのです。佳枝という名は字画か何かが悪いから、勝子と改名しろと、和田倉の方から強制されたということでございました」 「でも、金や麻薬や宝石などならまだしも、女を賭けて勝負をするとは実際馬鹿げきった話だ。よく、それであなたのお姉さんが満足しましたな?」 「姉はやくざっ気がございますから……女なんてものは男の眼から見ればああいう物品なのよ。そうと分れば、これからは力のかぎり、男をふみにじり、生血を吸って生きて行くのだ——とそんなことを申していました」 「それで、姉さんを探すのは犯人だと思ってですか?」 「いいえ、わたくしの感じは、そんなことをいっても姉には甘いところがありますから、誰かの道具に使われたんじゃないかと……」  静枝はさらに言葉を続けて、自分はいま姉とわかれて、池袋で別の店につとめているが、今日の英策の武勇伝を聞いて、こういう人ならば頼れると感じてここへ飛びこんできたのだ——といったが、英策はその時、何かを感じたように、立ち上がって窓から下をのぞいた。このビルの前を、ポケットに手をつっこんだまま、右往左往しているのは、たしかにさっき、山本耕治のところで彼にピストルをつきつけた二人の男の一人だった。 「あの男の名前を知っていますか?」 「あれ……あれは自分でチョップの鉄《てつ》と名のっている男です」  英策は腕を組んで、 「これはまた、とんだおともをつれておいでだ。あなたがここへかけつけて来たことをかぎつけてあなたの命をねらっているのか、それともあなたを餌《えさ》にして、こちらをさそい出すつもりか?……」 「わたくし、嘘《うそ》など申し上げません。本当なんです。もし嘘とお考えなら……」 「どんなことでもするというのですね」  英策はちょっと眼をとじた。その時、扉を肩でおしあけるようにして、入って来たのは松隈警部補だった。 「大前田君、君は僕をだましたな?」 「何だ?」 「あの家からは新しく、君と川島君の指紋が発見された。私立探偵というやつは、防犯に協力する建て前から、指紋を登録することになっているからな。前科者同様、逃げかくれはきかないが、川島君はどこにいる? さあ、何であの家へふみこんだりしたんだ?」 「指紋ぐらいで、何もそんなにあわてることはないじゃあないか。犯人を捕えればそれで文句はないのだろう」 「えらそうにいうが、それじゃあ犯人は誰なのだ?」 「犯人はいま君の眼の前にいる。これが和田倉健吾と同棲していた勝子という女だ!」  英策は鋭く静枝を指さした。静枝は椅子からとび上がって、 「わたくしが、わたくしが、あなたは何をおっしゃるの!」  英策はそれにはとりあわず、松隈警部補の方にむかって、 「松隈さん、この女をあと五分ほど、僕に尋問させてくれないか。その後はすぐにひきわたす」 「うむ、五分間だな」  警部補がうなずいて部屋を出ると、英策は静枝の方にむかって、 「君がいったい本当のことをいっているかどうかは、僕にもよくは分らない。もし君が餌だとすれば、それにひっかかって命をなくしたりしても馬鹿馬鹿しいし、もし君のいうことが本当だとすればねらわれているのは僕より君の方だ。あと二日——四十八時間もすれば、僕もこの事件を徹底的に調べあげられる。その間、警察の留置場はどこよりも安全なかくれ家だ。もし、何も話したくなければ、黙秘権の行使という手もあることだ」  静枝はだまって考えこんだ。二、三分、何か思案に耽《ふけ》っていたが、 「初めから、ここへ参ったのは、先生に一切お任せするつもりだったのですから、先生のおっしゃる通りにいたします」  と手をさし出して、英策の握手を求めた。     六  英策はそれから静枝を松隈警部補にひきわたし、事務所の窓から、じっとチョップの鉄という男の動きを見つめていた。  二人が入口を出るのを見て、彼はいきなりその方角へ近づいて行った。だが、ほとんどすれ違いそうになって、声もかけずに身をかわしたのは、静枝の手に光る手錠を見て、男は私服の警察官だろうと見やぶったらしいのだ。 「うん、やはりあの女のいったことは、まんざら嘘でもないらしい」  とつぶやきながら、英策は立ち上がって扉のそばの壁に身をよせた。この時ビルディングの入口から中へ入って来る男の姿を認めたからだった。  四、五分して、扉をノックする音がした。と思うと、答えも待たずに、両手を上着のポケットにつっこんだままの鉄が、一歩部屋の中にふみこんだ。 「何の用だ?」  一瞬に、ぐっと右腕の関節のあたりを、骨も砕けんばかりにおさえつけて、英策はたずねた。 「何をする?」  その腕をふりはらおうとした鉄の動きに応じて、鋭い合気の技がかかった。ほとんど空中を一廻転して、鉄は床の上にたたきつけられ、英策の膝《ひざ》にねじふせられていた。 「このおみやげはありがたく頂いておこう」  相手のポケットから、拳銃をぬき出して、 「ところで、用件をいってもらおうか? それとも、いまの女と同じで、すぐ警察へひき渡そうか?」  相手はまるで腹の底から絞り出すような声で、 「おれはただ、お前と話をしに来たんだ。このパチンコはいつでも持って歩いている紳士のアクセサリーだ。何もこんな手あらなあつかいをうけるおぼえはねえ」 「なるほど、話があるなら聞こう」  英策はピストルを自分のポケットに投げこむと、デスクの前の椅子を指さし、 「坐れ!」  相手はもう完全に、英策に呑《の》まれてしまっていた。ぴょこんと椅子に腰をおろし、 「この事件からは手をひいた方がよくはないかと、親分の言伝《ことづて》でやって来た」 「なるほどな。一度なら知らず、わざわざこっちまでだめおしにやって来るところを見ると、山本耕治は逆に自分がこの事件に関係していることを認めたのだな? 川島君の事務所から、拳銃を盗んで逃げたのが、麻雀の賭けで和田倉に譲り渡された山本のもと情婦だったとすると、山本がその女のかげで、何か糸をひいていたとしても不思議はないことだな。その女は、勝子という名か、それとも佳枝という名前か、それともほかの二つ名を持っているかは知れないが、いったいいまどこにかくれているんだ」 「知らねえ、おれは」 「はははは、お前も案外ノータリンだな。親分のいうことだったら、たとえ黒いものを白だといわれても、そのまま白だと頑張り通すのが、やくざ仲間のおきてだろうが、人を殺しに出張して、刑務所を何年かつとめて帰って、それで体に箔《はく》をつけるなんて物騒な考えがそのまま通る時代じゃねえぞ。口惜しかったら、おれを殺して見るがよい。ちょっと、お前の力じゃもてあぐむだろうな」  相手は貫禄の差に押されるように、額口からたらたらと脂汗を流していた。 「さあ、お前もこれ以上何もいわないというなら帰れ。この拳銃を持って行け。ただ、廊下へ出たとたんに景気よくぶっぱなされちゃあ、ほかの人間に迷惑だから弾丸だけはおれが預かっておく」  弾倉から弾丸をぬきとられたピストルをうけとって、チョップの鉄は立ち上がった。 「なるほど、大前田、今度はたしかにおれの負けだ。ただ、ことわっておくが、こいつはまだ第一ラウンドだぜ。ノックアウトを食ったわけじゃねえからおぼえておいてくんな」 「ああ、そっちが望むというなら、いつでも改めて勝負をしよう」  英策は笑って相手を送り出すと、すぐに追いかけるように事務所を出た。  ああして、竜子を助けようと思って打った大芝居が警視庁にもれてしまった今となっては、電話も盗聴されている恐れがある。  近くの喫茶店へ入って、電話口に顔をよせて、英策はホテルの竜子を呼び出した。  一応、事件の要点をかいつまんで話して聞かせると、 「とにかく、事態が急変したんだから、一度あって、今後のことを相談した方がいいんじゃないかと思うのだが、君の都合は?」 「ええ、いいわよ。何だったら、こっちへ来て下さってもいいし、わたしが出かけてもいいわ。ひさしぶりに一人で休んでいるのも、たまにはいいと思ったんだけど、やっぱり実際そういうことになって見ると、退屈そのものね」 「それじゃあ、銀座二丁目の千菊《せんぎく》という料理屋であおう。八時ちょうどに——いうまでもなかろうが、人目をひかないように、尾行には十分気をつけて」 「そんなこと、百も二百も合点だわ」  なぜか知れないが、竜子の声ははずんでいた。  英策は、尾行されていないことをしきりに確かめながら、七時半には指定の場所へやって来て、竜子のあらわれるのを待っていた。  八時……八時半……九時になっても、竜子はそこへあらわれなかった。ホテルへ電話をかけてもとうに出かけたということだった。  十時——突然、電話が英策のところへかかって来た。誰とも知れない男の声で、 「大前田、この事件から手をひくか?」 「何だと? そっちはいったい何者だ」 「名は名のらない。和田倉を殺した男とおぼえてもらおう」 「ふん、おれが手をひくかひかぬかは問題であるまい。こっちがだまってひき下がっても、警視庁では、それで通すまい」 「警視庁には、いざとなったら、身がわりの犯人を出せるのだ。ただ、お前は物を知りすぎている。員数があえば満足する役所と違って、お前たちは案外しつっこいところがあるからな」 「どんなことかは知らないが、こっちの口を封じるだけの自信があるのか?」 「おれは大前田英策という男は、どんな相手にでも約束を守る人物だと買っている。たとえ、おれのような殺人犯人に対してもな」 「いやだ——といったら?」 「お前も利口な人間だったら、まさかいやとはいえないだろう。いまこっちが、手もとにどんな玉を握っているか知ったら……その玉の生殺与奪の権が、こっちにあると知っていたら……」 「川島君か?」 「そこのところはそっちの推察に任せよう。まあ一晩じっくり考えるがよい。明日の晩、どこにでもお前のいるところに電話する」  嘲《あざ》けるような笑いを後にひいて、電話はそのままぷっつり切れてしまった。  汗ばんだ受話器をかけ直し、英策はじっと眼をつぶった。 「負けてたまるか。こんなやつらに……」  彼はぐっと腹に力をこめてつぶやいた。     七  英策はすぐに、竜子の泊っていたホテルへかけつけた。定宿とでもいっていい家だから、竜子のことはよく知っている。誰一人訪ねて来た者もなく、電話も英策からかかって来たきりだというのだった。  英策はやむを得ないと思って、付近の聞きこみを始めた。ところが、近くの煙草《たばこ》屋で思いがけない事実がわかった。  竜子は歩いてホテルを出ると、そこから電車通りまで坂をおり、車を拾おうとしたらしい。ところが、そこへ突然二人の目つきのよくない男があらわれ、黒い手帳のようなものをつきつけて、両脇《りようわき》から女の体をかかえこむようにして車へのせたというのだった。 「どうも、この近くをうろうろしておる時のあの二人の恰好は、ただものじゃないと思っていたんでございますよ。やっぱり、刑事さんたちだったんでございますのね。それはともかく、あんなきれいな女の方が、いったい何をしたんだろうって、わたくしどもも、びっくりしておりましたのよ」  と煙草屋の店先に坐っている中年の女は教えてくれた。  英策はすぐに警視庁へ電話をかけて見たが、竜子が捕《つか》まっているという形跡は全然なかった。竜子も今度は、いくらか脛《すね》に傷持つ身だから、この二人の偽《にせ》刑事を本物と思いこみ、観念して、簡単にひっかかったに違いない。 「利口なようでも、やっぱり女でしかたがないな」  英策は、自分自身を嘲けるようなひとりごとをもらしたが、さりとてこれからさしあたり打つべき第二の手には困った。 「しかたがない。とにかく、犬上蔵吉の方をあたって見ようか」  とつぶやくと、彼はすぐ日暮里へ車をとばした。本業はこのあたりから浅草にかけて、縄ばりを持っている香具師《やし》の親分だが、それだけではこの頃《ごろ》商売も思わしくないものだから、いろんな仕事に手を出しては、法律すれすれ、いや法律の裏をかくような稼ぎをしているはずだ。  その家はいくつかの露地を曲りくねったところにあった。最後の露地を入ったとき、その中からかけ出して来た女が、とんと英策にぶつかって来た。 「どうしたんです?」 「いま、そこで変な男に追いかけられて」  英策は女を背中にかばったまま、あたりの様子をうかがったが、別にその跡を追いかけて来る影もない。 「この辺にはたちの悪いやつが住んでいますからね。もう大丈夫でしょう。ここを曲ればすぐ、大通りへ出ますから」 「どうもありがとうございました」  女はかるく頭を下げて、英策の教えた方向へ去って行った。  こんなことは、世間にもよくありがちなことだから、英策の方もそれほど気にはとめなかった。ようやく、犬上蔵吉の家を探しあて、呼鈴《よびりん》をおしたが返事はない。 「おかしいな?」  英策はちょっと首をひねった。どうせこういう商売は、朝遅く夜遅いのが原則だから、十一時から寝てしまうはずもない。ちゃんと電燈はついたままなのだ。 「御免」  英策はがらりと玄関の戸を開けてあっと叫んだ。そのつきあたりの六畳の間に、一人の男が倒れている。ぷーんと鼻をついて来る生血の臭《にお》いがぶきみだった。  英策はあわてて部屋にふみこむと、その男の体を抱きおこした。犬上蔵吉に違いない。心臓を至近距離から射《う》ちぬかれたその傷が死因だということは一目でわかった。 「あッ、お前は?」  突然外から声がした。見るからに姐御《あねご》じみた女が一人、五、六人の子分を従えて帰って来たのだ。英策と死体とを五分五分にちょっとながめていたが、 「お前さん、どうして。誰が、こんなまねを!」  とヒステリックな叫びをあげ、英策をつきとばすようにして死体にとりすがって泣きくずれた。 「どうも御愁傷さま……」  なぐさめるように立ち上がった英策を、たちまち五、六人がとりまいて、 「やい、手前はいったい何者だ!」 「どうして親分をやったんだ!」 「何もおれが殺したわけじゃない。いまこの家をたずねて来て、偶然死体を発見しただけ。早く警察へ知らせれば、犯人はまだ、それほど遠くへ逃げてはいまいと思うから、じきに捕まるだろう」 「何も、仇《かたき》を討つのにサツの手なんか借りねえや。野郎!」  興奮するのも無理はないが、一人はいきなりジャックナイフで英策めがけてとびかかって来た。その手をかわして、ほかの相手の前にたたきつけると、 「血迷うのはいい加減よしにしろ! 仏の前で何たるざまだ。喧嘩《けんか》を売るなら、いつでも買ってやらねえことはねえが、おれを大前田英策と知っての上か!」  こういう世界では、名前が大きく物をいう。大前田という名前を聞いて、一同ははじき飛ばされたように大きく後にとび下がった。女房も静かに手をついて、 「大前田の親分さんとは存ぜず、とり乱して大変失礼を申しあげましたが、どうぞお許し下さいまし」  と挨拶《あいさつ》した。 「いや、大前田の血はひいているが、こっちはいま堅気のつもりだから、仁義はしないが、本当にお気の毒なことをしなさったと思う。こっちがその最期にめぐりあわせたというのも何かの御縁だろうが、私立探偵という商売をしている手前、及ばずながらも、仇討ちの真似《まね》事みたいなことはして上げられるかも知れないから、そのつもりでいてもらいたい」  と英策は、早速子分の一人を警察へ走らせ、松隈警部補にも連絡をたのむと、二階で女房のおれんに、いろいろと細かな事情をたずねた。  こういう商売の姐御だから、こんな事態に直面しても、言葉は少しも乱れなかった。  ちょっと近所に間違いが出来て、三十分ほど家を空けて、蔵吉を一人残しておいたあとに、突然こうした事件が突発したというのである。  こういう商売のことだから、勢力あらそいや、ちょっとした感情のもつれから、斬《き》ったはったの間違いが起こることは珍しくもないが、いまのところは犯人の目星もないというのだった。  英策は、しきりに山本耕治や、和田倉健吾や、近藤秀作との関係を問いただしたが、この女は深い関係までは知っていないような様子だった。  そのうちに、警察からも人がかけつけ、松隈警部補もあらわれた。いつになく、峻厳《しゆんげん》この上もない表情で、 「大前田君、二度までも続けて警察より先に殺人の現場へ行きあわせるとは、君の勘がよっぽど発達しているのか、それとも事件に何かの関係があるのか、どっちだろうな」  と冷たい皮肉をあびせて来た。 「今度ばかりは、何といわれても一言もないが、とにかく事情はこんなわけだ」  やむを得ず、英策は一切の事情をうちあけたが、警部補はいかにも苦々しそうに、 「そういわれれば、なるほど事情はのみこめるが、相かわらずのやりすぎだな。参考になる話も聞かせてもらったが、そのかわり、こっちは川島君の心配もしなくっちゃいけないから、よけいな苦労が一つふえた」  と眉《まゆ》をひそめた。  その時、英策は何となく、この家へやって来る途中、露地の入口でぶつかった謎《なぞ》の女のことを思い出していた。  もしや、この女が犯人でなかったか? 山本耕治から和田倉健吾にゆずりわたされたあの女、事件の秘密の鍵《かぎ》を握るあの女ではないかと思うと、間《かん》一髪というところで、運命の女神に翻弄《ほんろう》されたような気がして、口惜しさに身を切られるような思いだった。     八  その夜おそく、英策がさすがに寂莫《せきばく》たる思いで家へ帰って来ると、門前に大型の自家用車が待っていた。英策の姿を見ると、後の座席から、わかい女がおりて来て、 「大前田先生でいらっしゃいますか。わたくしは、近藤秀作の使いの者でございますが」  と、ていねいに名のった。  死の麻雀の卓を囲んだ第四の男、近藤秀作の名を聞いたときには、さすがに英策も全身に激しい闘志をかきたてられた。 「なるほど、近藤さんが何の用事で?」 「わたくしは使いでございますから、何も存じません。ただ、近藤が先生にじきじきお目にかかってお話し申しあげたいことがありますようで、それでお迎えに上がりました。いらっしゃっていただけましょうか?」 「うむ……」  英策が、すぐには返事が出来なくて考えこんでいると、 「もし、御心配ならばピストルでも何でもお持ち下さって結構だそうでございます。またおたくへお帰りになるまで、わたくしが人質になっておってもよろしゅうございます」  と女は歯切れのいいせりふをのべた。 「なかなかいいことをいわれたな。よし、せっかくのお迎えとあれば、何はとりあえずおたずねしよう。一度あいたいと思っていたところだ」  英策はそのまま武器も持たずに、女とならんで自動車のクッションに身を沈めた。  自動車はふたたび都心へ矢のように走りつづけて、渋谷にあるナイトクラブの前へとまった。  どこかのテーブルで待っているのかと思ったが、女が案内したのはそこの支配人室。近藤秀作は、その部屋の大きな椅子に腰をおろして待っていた。 「大前田先生、わざわざお越しいただいて恐れいりました」 「いや、こちらこそ、鄭重《ていちよう》なおまねきに預かって恐縮です」  英策には全然、相手の敵意が感じられなかった。ただ、むこうが妙におびえているようなそんな感じが伝わって来た。 「何かめしあがりますか?」 「御馳走《ごちそう》になりましょうか」  秀作が女に命令すると、白服のボーイがハイボールのコップを二つ、盆の上にのせて持って来た。秀作はわざわざそれを盆ごとテーブルの上におかせて、 「どっちでもいい方をおとり下さい。ほかのコップを私が毒味しましょう」 「これはまた、御念の入った御挨拶で」  英策は一つのコップをとりあげて、ほかのコップと中身をまぜあわせ、 「こうすれば、おたがいに安心して乾杯出来るというわけですな」  と笑った。 「先生もなかなかいいところをお見せだ」  秀作は笑って、自分のコップを空にすると、 「実は先生にお願いしたいことが一つあって」 「何です? それは」 「その用件を申しあげる前に、一つお約束いただきたいのは、秘密厳守ということです。これからお願いする話の内容は、事の善悪是非を問わず、誰《だれ》にも口外していただきたくない。その上で、お引きうけ下さるかどうかは先生の御自由として、いやとおっしゃったら、もうこの話のことはお忘れ願いたいのです」 「それは私立探偵として、当然のことでしょうな。それではお話をうかがいましょうか」  秀作は安心したように、 「和田倉健吾と犬上蔵吉の殺されたことは、先生もとっくに御存知ですな。彼等と山本耕治と私と四人で麻雀をしたという話も御存知でしょうが……とにかく中の二人が殺されたので、三番目は私がねらわれる番だと思うが、あと十日ほど、私の身を守ってもらいたいと——お願いというのはこうなのです」 「二人の死体はたしかにこの眼で見とどけましたが、あなたまで殺されるという疑いはどこから起こされたのですか?」 「これから後が、秘密中の秘密というわけですが……我々四人は、ある方法で大変な品物を手に入れたのです。はっきり申せば、大蒙古《もうこ》——グレイト・モンゴルといわれる二百十三カラットのダイヤモンドを」 「なるほど、それで?」 「どのような方法で、この宝石を入手したかということは、現在の問題とは関係のないことですから申しませんが、何しろ大変なものだから、かえって困ってしまったのです。正確に四等分するわけには行かないし、またそんなことをした日には値打が下がる。だから適当な時期が来るまで、絶対安全な場所に保管し、この四人が立ちあわなければ、手に入らないようにしたのです。これを売却した時初めて、その代金を四等分する約束だったのですが、その時期までに死んだ人物があったら、その分はほかの人間に分配されるわけです。おわかりですな?」 「なるほど、二百十三カラットのダイヤといえば、時価何億か知れないけれど、とにかくもう一人死ぬとすれば、四分の一から二分の一に増えた分け前が一人じめに出来るというわけですな?」 「まあ、そういったところです。ことに、山本はこのごろ、いろいろの仕事に手を出したのはいいが、それがうまく行かずに生活も荒れている……暴力がそのまま力として物をいう時があれば、何の役にもたたない場合もあることだから、一本調子に物事をきめようとするのが自体無理なのだが……さあ、ここまで申しあげたなら、頭脳明徹、決断力十分な先生のことだ。これ以上御説明の必要もありますまい。いかがです。おひきうけ願えましょうか?」 「期間は?」 「いろいろの情勢から判断して、一週間もあれば十分と思います。お礼としては百万円さしあげますが……」  英策はじっと眼をつぶった。どうしてこの『大蒙古』と呼ばれる宝石が、彼等四人の手に入ったかは分らなかったが、そこにも犯罪の臭いが感じられた。いつもの英策ならば、こういう申し出は即座にことわってしまうのだが、竜子の身に迫っている危険を思うと、こちらの連絡もすぐには断ち切りたくなかった。 「そうですね。いまは二時……この場で御返事も出来かねますから、九時まで待って下さいませんか。その時、腹をきめましょう」 「御即答いただけないのは残念ですね」  秀作は、コップの琥珀《こはく》色の酒を揺すりながら、 「それでは明日、いや今日の九時まで私の方でお宿をいたしましょう。これからおたくまでお帰りになって出直していただくのも大変だから」  と冷たい殺気を初めて眉間《みけん》に閃《ひらめ》かせた。     九  いわば態《てい》のよい缶詰《かんづめ》だった。秀作の息がかかっているらしい宿屋に案内されて、英策はベッドの上にふんぞり返った。  何といっても、ここ一日の活動でくたびれきっていることだから、英策はたちまち寝入ってしまったが、突然、むかしの武士のように、部屋の中に、誰か人が入って来たような気配を感じて眼を開いた。 「大前田さん……」  というのはたしかに女の声。彼を出迎え、案内したあの女の声に違いなかった。  英策は、枕《まくら》もとのスタンドのボタンをおした。寝間着姿の女は、英策の耳に口をよせて、 「わたくし、鏡子《きようこ》と申します。そのおつもりで……」 「どのつもりで?」 「わたくし、近藤からいいつけられて、あなたをくどき落とすようにと……」 「やめてもらおう。大前田英策はまだ女を餌《えさ》にした釣針に喰いつくほど、ぼけてはいないつもりだ」  女は泣き出しそうに眉をひそめた。さっきはまるで女事務員のようにてきぱきした態度だったのに、今ではなよなよとした女らしさをあらわにして、 「先生、ほんとうのことを申しますと、わたし、一目で先生が好きになってしまったんです……でも、車の中では、そんなこともいえなかったし、こんなことをいいつけられたので喜んで……」 「そっちは嬉《うれ》しいか知れないけれど、こっちは有難迷惑だ」  女の眼から大粒の涙がしたたって頬をぬらした。 「わたしが嫌《きら》いだとおっしゃるのね?」 「好きにも嫌いにも、正直なところ、そういう気持にはなれないというだけだ」 「それではやっぱり、先生はあの竜子さんというお方のことを思っておいでなのね?」 「どうしてそんなことをいう? どうしてそのことを知っている?」  鏡子はぎくりとしたように身をふるわせた。口に出してはならないはずのことを、うっかりもらしてしまったという悔恨の念が、ありありとその顔ににじみ出ていた。  英策がぐっとその二の腕をおさえて、 「君、本当に僕に惚《ほ》れたというのなら、その秘密を打ちあけてくれ。たのむ。何があったか。近藤秀作の方が、川島君の誘拐《ゆうかい》事件にからんでいたのか?」  鏡子はしばらく躊躇《ちゆうちよ》していた。と思うと、とたんに英策の広くて厚い胸に身を投げ、声をかぎりに泣きじゃくった。  英策は、しばらく黙って、そのまま相手を泣かせておいた。鏡子は三十分ほどして、ようやくわれに返ったように、 「じゃあ、本当のことをいいますわ。そのかわり…‥こんな泥沼へ落ちこんだ、わたしのような馬鹿な女でも、かわいそうだと思って下さる?」  と聞こえるか聞こえないかというくらいのかすかな声でたずねた。 「人間というものは生きているかぎり、愚言愚行の連続だ。こういう僕も、今までどれだけ間違いをくり返して来たか知れないさ。それでも、そうした時にたえず思い出したのは先祖の英五郎の言葉だったよ。人間というものはたえずお天道様を見上げて胸をはって歩け。たとえ溝《みぞ》の中におっこって、足を汚したところで、また上がってくればいいじゃないか——という言葉が、そういう時に僕を救った。君だって、今までどんな生活を続けて来たのか、どこで足や手を汚したか、そんなことは僕には分らないが、それかといって、かがみこんで、猫背で足もとばかり見つめて歩く必要はないと思うな。上を見るんだ。お天道様を。それで泥沼からはい上がろうとする気持があったら、俺《おれ》はいつでも力を貸そう」  英策の言葉は、鏡子の心を、激しく揺さぶったようだった。 「ありがとう。わたしのような女でも、今日のあなたの言葉は一生忘れやしないわ……」 「それで、川島君の方は?」 「ねえ、これは秘密中の秘密だけれど」  鏡子はいよいよ、英策に身をすりよせて、 「川島さんは、ある方面からたのまれて、『大蒙古』の行方を必死に探しまわっていたのよ。その宝石の前の持主からたのまれて……そうかといって、その人だって、正当に手に入れたわけじゃないんだけど、そこは何とか、うまくいいくるめたんでしょう」 「うむ、そのことは僕も知らなかったな。だが、川島君はそういう仕事は好きだから、それこそ生き甲斐《がい》を感じて働いておったろう」 「それで、川島さんはいろんな糸を探って、山本一家のほんの前まで肉迫していたのね。もう一歩、あと一歩つっこめば、四人の関係が分るところまで到達したら……この四人は身の危険を感じて来るでしょう。四人とも、人を殺すぐらいのことは何とも思わない連中の集まりだから」 「うむ、それで?」 「その時、四人の中でとんでもない考えに思いあたった悪魔がいるのよ。川島さんを殺して口をふさぐのはやさしい。だけど、一人殺すのも四人を殺すのも結局は同じことでしょう? 川島さんという人は、女だてらにピストルを持ってあばれ廻るようなタイプだから、何かのはずみで三人とも殺してしまって、良心の呵責《かしやく》にたえかねて自殺したような情況が作られたら……」 「一石四鳥の計略か」  英策もこの陰謀には舌をまいた。  もし竜子が死体となって発見されるようなことがあったら……第一の殺人とは、もう何かの関係があるのではないかと疑われているのだし、第二の殺人も偶然か故意かは別として、竜子がホテルを飛び出して、誘拐された直後に行なわれているのだし、煙草屋の女の証言も本当に誘拐が行なわれたという決定的な証拠にはならないのだ。それに第三の殺人が行なわれたなら、その時には、もう少し竜子への疑惑を濃厚にするような直接証拠が残されるかも知れないのだ…… 「それじゃあ、こういうことはいえるな。その第三の殺人が行なわれないかぎり、川島君の命には危険がないということだな?」 「それまでは……」 「それで、その計画を考え、実行しているのは誰だ? 山本耕治か? それとも近藤秀作か? いや、君がそこまでその計画の内容を知っているからには、それは聞くまでもないことだな?」  鏡子は何も答えなかった。ただ、もう一度思い出したように、英策の胸に顔を埋め、子供のように大きく泣きじゃくるだけだった。     一〇  朝の九時、がらんとしたナイトクラブのホールで英策と近藤秀作の二度目の会見が行なわれた。 「いかがです、大前田さん。私の申し込みはおうけ下さいますでしょうな?」  秀作は、まるで魚は網に入ったという顔をしていた。 「おうけしましょう。ただし一つの条件つきです」 「それは?」 「期限は僕が考えて、これで十分だと思った時まで。そのかわり報酬は一銭もいただきますまい」 「それは困る。いや、人に仕事を、それも或《ある》いは命にもかかわるような事をお願いしておいて、無報酬というわけには行きませんな」 「それがいやだとおっしゃるならば、おことわりするだけです」  秀作はちょっと思案に耽《ふけ》っていた。だが、一瞬に何か別の作戦に思いあたったのか、 「よござんす。あなたが一銭も欲しくないとおっしゃるなら、ほかの方法でお礼も出来るでしょう。また、危いからといって、戦線を離脱するようなあなたでもありますまい」  といって英策に手をさし出した。 「これで話はきまりましたな?」 「いかにも」 「それでは私のかわりに今日ここである人物にあって下さい。山本耕治の方から、やって来る人間があるのです」  いくらか命令口調を出して、秀作は冷たくいいはなった。  チョップの鉄が、このクラブへやって来たのは十時だった。ぐるりとホールを見まわして、悠然《ゆうぜん》と椅子《いす》に腰をかけている英策を見て、はっと顔色をかえてしまった。 「もっと近くへやって来い。そんなに遠くじゃ、話もピストルの弾丸もとどかねえぞ」 「うむ」  広いホールの空間を横切って、二人は一歩一歩近づいた。ほとんど同時に、二人の手にした拳銃は火を吐いた。ぱっと床の上に倒れた英策が起き上がったとき、鉄はピストルを手から落とし、血まみれの右手をおさえて呻《うめ》いていた。 「第二ラウンドもおれの負けだな」  顔を歪《ゆが》めて、鉄はうめいた。 「それなら第三ラウンドに入るか? チョップの鉄と異名をとっているくらいなら、空手かレスリングは得意だろう。いつでも合気で相手をする」  凶暴な殺気が鉄の眉間《みけん》に閃《ひらめ》いた。いきなり床を蹴《け》って英策にとびつくと、血みどろな手刀うちの一撃をあびせたが、その手は空しく宙を切り、その体は大きく輪を描いて床にたたきつけられた。その上に、かるく相手の腕の逆をとりながら、のしかかった英策は、 「どうだ。話というのを聞こうか? ここの主人の代理として——山本耕治本人がのりこんで来るなら、近藤君も喜んであうだろうが、代理なら代人同士で話をつけよう」 「うむ……」  鉄はもう完全に、英策に呑《の》まれてしまっていた。 「何でも話す。おれの負けだ」  二人はあらためて、椅子に腰かけて相対した。鉄はアロハの袖《そで》を破いて自分の傷口をしばりながら、 「親分からの伝言を、近藤秀作に伝えてもらいたい。和田倉健吾と犬上蔵吉を殺したのは誰か。それを教えてもらおうとな」 「伝言はたしかに、一字一句も違えず、むこうに伝えよう。それだけか?」 「それだけだ」 「それでは逆にこっちから聞く。山本耕治の代人としてではなく、チョップの鉄本人に、大前田英策がたずねるのだ。池袋から、あの時おれの事務所までやって来たのは何のためだ?」 「それはいわなくても分るんじゃねえのか。お前をつけて、何か機会があったら殺せと——たった一言、それだけだった」 「それで、あの女、雪村静枝という女にちょっかいを出しかけたのは?」 「あの女が、ビルへ入って行ったときにはおやと思った。ただちょうど警官がそばを通ったもんだから、おどしつけるわけにも行かなかったし、それでじりじりしながら、出て来るまで待っていた」 「ちょうど松隈警部補が、事務所へやって来てくれたおかげで、あの子も命びろいをしたというわけだな」 「まあ、そういうことになるだろうな。こっちはお前をばらすのが目的だから、それまでは、あんまりほかをからかうわけには行かなかった」 「それから次に聞きたいことは、あの女の姉、雪村佳枝かそれとも和田倉勝子か、名前はどうでもいいが、その女をあやつっているのは誰だ?」 「そんなことはおれなんかに分るものか」 「いわぬか。それでは、川島君をかどわかしたのは誰のしたことだ?」 「それも知らねえ」  英策はじっと相手の眼を見つめた。鉄は恐ろしいものを見るように、たちまち視線をそらしてしまった。  英策はむこうの扉から半身をのり出して、こちらを見つめている鏡子の方に合図して、そばによびよせると、 「警視庁の松隈警部補へ電話をかけてくれたまえ。殺人未遂の現行犯をひき渡すと」  もちろん覚悟はしていたのだろうが、鉄の全身には激しい戦慄《せんりつ》がかすめてすぎた。 「それを……それをいったら、見のがしてくれるか?」 「その言葉に間違いがないということが分ったらな」 「竜子をかどわかしたのはおれたちの仲間だ。いま、山本組の本部の地下室に監禁されているはずだ」 「うむ……」  英策はじっと鉄の眼を見つめてだまっていた。それから、ポケットの中を探ってとり出した手錠をがちゃりと、鉄の両手にかけて、 「その調べがつくまで待っていろ」     一一  鉄の体を小部屋にぶちこんで、外から扉に鍵《かぎ》をかけると、英策はすぐに近藤秀作のところへやって来てこのいきさつを報告した。 「まあ、伝言というのはそんなことですし、これであなたが殺される可能性もいくらか減ったわけですな」 「君はずいぶん皮肉な物のいい方をするね。いったい敵か、それとも味方か?」  秀作もいくらかむっとしたらしかった。 「そんなことは今さら聞くまでもない。第二次大戦の最中に、チャーチルがこんなことをいいましたよ。ヒトラー一味を退治するためには、どんな悪魔とでも手を握ると。僕があなたに味方しているのは、ただ川島君を無事に助けたいためだけだから」 「君は近ごろの人間には珍しい純情家だな。金もいらぬ。命も惜しまぬ。それでいて、馬鹿じゃないかとこっちが思うくらい、手ばなしでのろけて見せるのだからな。君のような人間が十人そばについていてくれれば、おれも天下をとれるのに。……暗黒街でも、いや、もっと日のあたる場所でもだ」  その言葉には、何ともいえない実感がこもっていた。 「それで、君はこれからどうするつもりだ」 「川島君が池袋の山本組の事務所に捕まっているというなら、どんなことがあっても助け出さなければ——あなたに対しても、そのことは間接的なサービスになるでしょう」 「うむ」  近藤秀作はうなずいた。真意はどこにあるのか知れないが、ぐっと大きな手をつき出し、 「成功を祈るよ。ただ犬死にだけはしないように——くれぐれも気をつけてくれたまえ」  といくらか声をうるませていった。  英策が部屋を出て来ると、廊下には鏡子が顔をうなだれて往《ゆ》きつもどりつしていた。 「先生、ちょっと……」  と英策をそばの小部屋へひきずりこんで、 「先生はこれから池袋へいらっしゃるの?」 「もちろん、行くとも」 「およしになって! それだけは」 「なぜだ。君はなぜ、そうして僕をとめるのだ?」  鏡子の眼からは大粒の涙がしたたり落ちた。 「先生、先生の昨夜おっしゃったことが、胸にこたえたからなんです。わたしはいけない女でした……山本側からこちらへ入りこんでいたスパイだったんです……」 「何だって?」  さすがの英策も声をあげた。なるほど、まるで戦国時代の群雄|割拠《かつきよ》を思わせる暗黒街の各頭目の間には、冷熱どちらの戦争も跡を絶たないし、いくらかでも、相手の勢力をそぐためにはいかなる手段も辞してはいられないだろう。とはいうものの、誰が敵か誰が味方かも分らぬようなこの激烈な争闘には、英策も驚かずにはいられなかった。 「先生、わたしはやっと昨夜から眼がさめたような気がします。先生のおっしゃったように、溝へ落ちて、足も手も、いいえ体の隅々まで泥に汚れた女ですけれども、これでも救われるのでしょうか?」 「人間の過ちというものは、改めるに遅すぎるということはないさ。先祖の英五郎がいっている。この世の中を、どう生きて行ったらいいかということは、どんな本にも書いてない。仏様や聖人君子の書いたありがたい書物でも、こんな時にはこうしろとその場にあてはまるような便利なもんじゃない。ただ、おれの全身何十か所かにうけた傷の一つ一つがおれに、どうしてこの世の中を渡っていったらいいかを教えてくれたとね。体ばかりじゃない、心にだって、生まれてから傷一つ残していない人間なんて、あったらお目にかかりたいくらいだ」  卑近なたとえには違いないが、この話はまたしても、鏡子の心を激しくゆすぶったようだった。大きく身をふるわせて涙声で、 「わかりました。わたしはこれから、こんな世界から足を洗って田舎《いなか》へ帰ります。どうせ、こういう女だからと今までは、いくらかやけになっていましたが、生まれかわったような思いがします」 「わかったならばそれでいい。ただ一つ、君にたのみがある。本当に今までしていたことが悪いと思ったら、一つ僕に力を貸してくれないか」 「わたくしで出来ますことならどんなことでも……」 「それほど難しいたのみじゃない。ただ、勇気だけはいくらか必要だが……」  英策は鏡子の耳に口をよせて、何か二言三言ささやいた。     一二  その夜、大前田英策は、チョップの鉄をつれて、神宮|外苑《がいえん》へ車を走らせた。  正十二時——  絵画館の前には、もう一台の車がとまっていた。三十メートルほどの距離まで近づいた時、ヘッドライトの中に、ピストルをかまえた男の姿が浮かび上がった。 「止まれ!」  英策はブレーキをふんで、車を急停車させると、チョップの鉄を楯《たて》にたてて外へ出た。 「一人でやって来たのか? いい度胸だ」  暗闇《くらやみ》の中からあらわれた山本耕治は、いくらか舌をまいたようだった。 「約束通り一人で来た。国際法にきまっている通りの捕虜の交換だが、そちらのカードはどうしたのだ?」 「車の中に待たせてある」  山本耕治は、むこうの車に顎《あご》をしゃくりながら、 「大前田、おれがいま、ここで手前を射ち殺したらどうするつもりだ」 「殺されるのはしかたがないな。ただ、お前との電話での話は、そのまま全部、テープに録音しておいたから、間違いなく、そっちも殺人罪でつかまるな。今度は身がわりをさし出して、こいつが犯人だ——というわけには行くまい」 「何とも手まわしのいいことだ。電話でも話したが、竜子をそのまま帰したら、この事件には、もう一切、見ざる言わざる聞かざるで、全部のことを忘れてしまうと約束するか?」 「それは何ともいえねえな。もしもお前が、そんな約束をしたつもりで、ここまで出て来たとすれば、それは勘違いというものだ。後で念には念をいれて、もう一度テープをまわして聞いて見たが、おれの方からそういうことをいったおぼえはねえんだよ」 「何?」  最初ピストルをつきつけて、車をとめた男の方が、かっと逆上してしまったか、たちまちピストルの引鉄をひいた。  だが、いわゆる英策の心のレーダーは、こういう動きを一瞬以前に捕えたのだろう。いうにいわれぬ鮮やかな動きで横に飛んだかと思うと、たちまちその男の体は宙を飛んで、山本耕治の足のあたりにたたきつけられた。  この一撃によろめいて、山本耕治はつんのめった。のめりながらも、自分でもピストルの引鉄はひいたものの、その弾丸は空《むな》しく木の間をかすめて飛んだ。  わずか一瞬の後には、形勢は逆転していた。山本耕治の背中に廻った英策は、相手の腕の逆をおさえ、 「じたばたすると骨が砕けるぞ。やい、野郎ども、手前たちの弾丸で親分の体を蜂《はち》の巣にするつもりか?」  と呼びかけた。  物かげからあらわれた五、六人は、この様子を見て、声もたてずに立ちすくんでしまった。完全に英策に呑まれきって、身動き一つ出来ないのだ。 「歩け、手前の車の方へ!」  英策は冷たく命令した。  耕治は顔をひそめて歩き出した。車の中には、竜子が二人の男にはさまれ、真青な顔をして坐っている。 「どうだい? 女ホームズ先生、元気かね?」 「まあ、またしてもドン・キホーテの御入来?」  この期《ご》にのぞんでも、まだ竜子はへらず口を忘れなかった。 「この人たちの待遇はそんなに悪くなかったわ。あなたなどより、ずっと貴婦人に対してのエチケットは心得ていてよ」 「ふン、ところが君をチョップの鉄のかわりに、車へ乗せて帰ったとするね。とたんに、どこからか大型のトラックがあらわれて、こちらと正面衝突する。むこうはもちろん、運転免許のとりあげにはなるが、こちらは二人ともあの世行き。過失傷害致死と見せかけた殺人とは、いやはや、とんだエチケットだ」 「知っていたのか? どうしてそれを?」  山本耕治は悲痛な声で呻《うめ》き出した。 「ははははは、そんなことぐらいはレーダーにちゃんと感ずるとも。べつにスパイや逆スパイを使う必要はないことだ」  英策は男たちを追い出し、山本耕治の車に竜子と二人で耕治をはさんで乗りこむと、運転手に、 「渋谷へ!」  と命令した。 「おれをいったいどこへつれて行く?」 「近藤秀作のところへだ」 「どうしてそんなまねをする」 「あいにくこっちはここにいる川島君みたいに頭がよくないからな。そのかわり、最も原始的な、最も確実な探偵法を用いるのさ。直接の下手人はまあほかにいるかも知らないが、とにかく和田倉、犬上とこの二人の殺人を実行したのは、手前か近藤秀作かのどっちかだろう。だから、二人を対決させて見て、どちらでも殺人犯人ときまった方を、警視庁へひきわたすのさ」  英策は事もなげにいいきった。     一三  奇妙な四人の顔あわせだった。  宝石『大蒙古』を急奪し、死の九連宝塔の手があらわれた麻雀の卓をかこんだ四人のうち、二人は死に、残された二人の顔役と、二人の探偵が、いまテーブルを囲んで睨《にら》みあったのだ。 「近藤さん、これであなたからたのまれたおれの役目は終わった。後は敵でもない味方でもない公平な第三者として、話の決着をつけるつもりだが、それでよかろうな?」  秀作も苦笑いしてうなずいた。 「さあ、それで第一の質問は、二人を殺したのが誰かということだ? ここにいる二人のうちのどっちかが、少なくともかげで糸をひいていたろうとは思うがどっちだ?」  そばにいる竜子も、自分の恐ろしい経験のことも忘れて呆《あき》れ返ったくらい、単純素朴な尋問だった。 「おれじゃねえ!」 「ふン、こっちの知ったことじゃあないさ」  さすがに海千山千の曲者《くせもの》だけあって、二人とも眉一筋も動かさなかった。英策はじっと二人の顔を見くらべていたが、 「なるほど、さすがに御両所とも、暗黒街では顔役とたてられるだけあって大したものだ。ただ、こっちも生まれつきの無法者で意地っぱりだから、このままでは左様でございますかとひき下がるわけには行かないのさ。すこぶる原始的な方法だが、盟神探湯《くかたち》の法を用いて犯人をきめる」 「何のまねだ?」 「竜子さん、例のカクテルを作って下さい」  竜子は立ち上がって、別室からハイボールのコップを二つもって来た。 「さあ、御両所とも、この酒を乾杯してもらいたい。天地神明に誓っていうが、これには毒は入っていない」 「うむ……」  二人がうなずいて、コップを一気にあおるのを見て、英策は瞳《ひとみ》を輝かせた。 「盟神探湯というのは、日本原始時代の裁判でな。熱湯の中に両手を浸させて、やけどをしたら犯人だし、無事だったら潔白だという方法だ。それをいくらか現代化したのが、大前田流のこの判定法だ」 「いったい、どうしろというのだ?」 「その酒の中には平等に催眠剤をまぜておいた。ドイツ製の無味無臭の液体だから、味も何も分らなかったろうが、いまに二人とも眠くなる。眠くなれば、意識力も何も鈍るから、何でも心の中の秘密はしゃべってしまう。医者の方では、これを精神分析によく用いるが、これが大前田流盟神探湯だ」  竜子は、何が何だかわからなかった。自分が作ったハイボールは、普通のウイスキーに水を割っただけだし、ドイツ製の催眠剤もないものだ。いつもなら、ぷっと吹き出したくなるところだが、さすがにそれだけは必死にこらえた。  ぶきみな沈黙がしばらく続き、部屋にノックの音がした。  英策は、ここぞとばかり声をはりあげ、 「さあそろそろ犯人が分るころだ。お入り」  扉が開き、廊下には一人の女が立っていた。  英策はするどくそちらを指さして、 「ここにすべての秘密を握った女がいる。山本耕治のもと情婦——和田倉健吾に、麻雀の賞品がわりに渡された雪村佳枝とも勝子ともいう女だ」  きゃーっと悲鳴をあげたのは、山本耕治の方だった。思わず席をとびたつと、テーブルを前につきとばし、椅子をつかんでふりあげた。  どこにどうしてかくしていたのか、さっき英策が身体検査をした時には、どこにもなかった拳銃《けんじゆう》が近藤秀作の手に閃《ひらめ》いた。鈍い轟音《ごうおん》と同時に、山本耕治の体はそのまま床に崩れ落ちた。 「何をしやがる!」  英策はその手に飛びついて、拳銃をうばいとったが、近藤秀作は別に抵抗しようともせず、 「法律では自分の命を救うため、人を倒す権利は認められている。正当防衛としてはいささか度を越したかも知れないが、緊急避難という条項にはたしかにあてはまるはずだ」  と悪魔のように冷たくうそぶいた。  女に続いて入って来た松隈警部補はこの言葉を聞いて、鬼のような顔になった。 「そうかもしれない。ただ、こっちにしたら十五年はぶちこんでやりたいところだ」  そういうなり、山本耕治のそばにひざまずいて、その体をしきりにゆすぶっていたが、やがて起き上がって、 「それにくらべれば、こっちの男の方がまだしも、最期だけは、人間らしい心に帰っていたようだな。  ——たしかにおれだ。おれがあの二人を殺した。それはここにいる佳枝が知っている通りだ。  と告白して死んだから」  大前田英策はかすかな溜息《ためいき》をもらしていた。そして、部屋の片隅に立ち、魂を失ったような恰好《かつこう》で、じっと死体を見つめている女にむかって声をかけた。 「静枝さん、あなたは自分の手を下さずに、姉さんの仇《かたき》を討ったようなものですね。この男が、あなたの姉さんを誘惑して、殺人に一役買わせるほどに堕落させたとしたら……彼は自分の死を以て、その罪をつぐなったというわけですよ」     一四  それから四、五日して、逃走中の佳枝は警察の手に捕われた。すべては山本耕治が仕組んだ芝居で、殺人には自分は直接の関係はないと彼女は必死に主張した。命令通り、竜子の拳銃は盗んだし、耕治を和田倉の家へひきいれる手伝いまではしてのけたが、もうそれからは恐ろしくなって、逃げ出してしまったというのだった。 「死人に口なし——ということがあるし、こうなれば山本一人が貧乏くじをひかされたな。この女のいっていることも、嘘《うそ》か本当か分らないが……」  英策はちょうどその時訪ねて来た竜子に新聞を見せて笑った。 「またこれで借金がふえたわね。今度こそ利息をつけて返すつもりでいたんだけれど。ああ、弱きものよ、汝《なんじ》の名は女だわ」  竜子はふーっと溜息をついて、 「でも盟神探湯には恐れいったわ。あんな神がかりの方法を持ち出さなかったら、わたくしもあなたという人を、もっと尊敬するんだけどさ」 「ところが、ああいう原始的な方法の方が案外効果があるんでね。あの姉妹はよく似ているし、あれだけもったいぶったことをいって三十分も神経を緊張させた後なら、きっと間違えてくれると思ったよ」 「原始的、原始的、原始的すぎるわ。でも、おかげで大蒙古の方はどこにあるか分らなくなったわね。どうも、あの近藤秀作という男は黙秘権を行使してしまうだろうし」 「ところが、それが見つかったのだ。すこぶる原始的な推理でね」 「えッ、どこに?」 「東京都内の銀行の貸金庫を残らず調べて、この四人が顔をそろえなければ開けられないという契約の金庫を見つけ出したんだ。但し誰《だれ》かが死亡した時には、残りの者がそろえばいいという条件でね」 「やったわね」  竜子はとたんにテーブルをたたいて歯ぎしりした。 「それだけは、どうしてもわたしが見つけ出そうと思って、この間から悪戦苦闘していたのに、鳶《とんび》に油揚をさらわれて、こっちも断腸の思いだわ」 「何もそう口惜しがることはないんだよ」  英策もかすかな苦笑を浮かべて、 「それが偽物《にせもの》だったとしたらどうする?」 「何ですって!」 「二百十三カラットといえばざっと四十二グラムだ。ダイヤの比重は三・六だから、大体うずらの卵ぐらいの大きさだがね。事もあろうにこの貸金庫の中からあらわれ出でたのは、大きさは同じだけれども、ガラス玉だった」 「まあ、そんな馬鹿げた……」 「必ずしも、馬鹿げたことじゃないと思うな。何といっても、あれだけの人間が四人もよってたかって、最初からただのガラス玉に血道を上げるわけはないから、彼等がこの宝石を手に入れたことには疑問はないだろう。ただ、それを金庫へおさめる時に、誰かがたくみにすりかえたのだろうね」 「誰が?」 「それは僕にも分らないな。ただ、後に残った二人でないことはほぼ確かだから、その犯人は最初殺された二人の中にいるはずだ。いろいろ文献を調べて見ると、どうもこの宝石には不吉な伝説がまつわりついているようだ。この四人がこんな最期をとげたのも、君の嫌《きら》いな原始的表現では、宝石の呪《のろ》いということになるのだろうが、君もその毒気にはいくらかあてられた方だろう。こんな物騒な宝石探しはぷっつりあきらめて、僕と結婚する気はないか?」 「いや、いや、いやよ」  竜子はぶるぶると身ぶるいして、 「そんなこと、今から考えてなんどいられないわ。あの宝石がどこにあるか分らないといわれたんで、わたしはとたんに闘志をかきたてられたのよ。まず、どうしてもそれを探して、それから御申し込みの方は、慎重に考慮いたします」 「ははははは」  英策は腹をかかえて笑い出した。 「それでは御意《ぎよい》に召すままに。どうせまた、二度や三度は、こっちが危いところを助けてやらなきゃならないんだろう」 「そうそういつも柳の下にどじょうはいないわよ。いっぺんは必ずそっちの鼻を明かして上げるから。いいーだ」  竜子はこの期にのぞんでも、まだ持前の強気を捨てはしなかった。   顔のない女     一  川島竜子が、女だてらに、死んだ夫の遺志をついで、川島私立探偵事務所の所長となってから、もう三年の月日がたつ。  実家の父は九州のある炭鉱主で、億を単位として数えるような財産家だし、竜子自身も、眼も鼻も口も、一つ一つをとりあげると、どこといって特にきわだった美しさもないかわり、顔全体も体の姿態も、近代的に溌剌《はつらつ》とした十人並以上の美人なのだし、年もまだ三十になるやならずで子供もなし、どんな相手と再婚しても、ちっともふしぎはないはずなのに、死んだ夫に操をたてて、大の男でも二の足をふむような、この仕事を続けているのだから、これは現代にもちょっと珍しいくらいの美談である。  実家の父は、最初は私立探偵などと結婚するという娘の決心に反対し、それから夫に死なれた時自分でこの仕事を続けるという、その決心に反対し、この娘竜子の強情には、たえず反対し通しでその反対にもくたびれたものか、この頃《ごろ》では何をしても一言もいわなくなってしまった。  この父親は自分でも、むかしなら槍《やり》一筋から身を起こして一国一城の主ともなったろうと豪語もしていたし、また実際にも口八丁手八丁ぐらいのことをやって来たのだから、自分の血を誰よりも濃くうけついでいるこの娘には、そのくらいのことはしかたがないと、匙《さじ》を投げきってしまったのであろう。  それと符節をあわせるように、竜子も友達をつかまえては、よくいったものだ。 「わたしには、初めからMが過剰だったのね。結婚して、妻の座におさまって、子供を育てて、毎日同じことをくりかえして、お婆さんになって行くなんて、考えて見ただけでもぞーっとするわ。むかしなら、長脇差《ながわきざし》をぶちこんで、何とかのお竜と二つ名を持って、大勢の子分を顎《あご》で使う、そんな姐御《あねご》になったところね。でも残念だけれども、いまの御時世じゃあ……」  たしかに、いまの御時世なら、竜子のような性格では、女実業家になったところで、持前の冒険欲は満たせないだろう。これがアメリカあたりなら、ジェット機の操縦でも始めるか、アフリカへ猛獣狩の探険旅行にでも、飛び出して行くところだろうが、戦後の島国日本では、精々こんな商売が、最大限にスリルを満喫させてくれる職業なのだろう。  しかし、この職業も必ずしも、彼女の求めているものを、最大限に満足させてくれるものではなかった。私立探偵とはいっても、依頼される仕事の九割までは、地道で平凡な、会社の信用調査だとか、結婚の相手の身元調査だとか、彼女の空想力なり冒険欲なりを満たしてくれないものばかり——そういう仕事は全部助手にまかせて、彼女はLPばかり聴いていた。  ところが、この一通の手紙は、竜子の想像力に訴えて来る、何か奇怪な、底知れないぶきみさを持っていたのだ。 �九月二十八日午後六時、新宿の『ラムール』という喫茶店の二階へ行ってごらんなさい。『顔のない女』が人を殺すでしょうから、あなたの退屈しのぎには、絶好のチャンスだと思います�  署名もない、何の特長もない筆蹟《ひつせき》でしるされたこの手紙——これは誰かの悪戯《いたずら》なのか?  竜子の助手は、一人のこらず、こんなことにはかかわらない方がいいととめたが、竜子は断然首をふった。 「いって見るわ。だまされたって、もともとじゃないの。コーヒー一杯ですむことじゃないの」  そのコーヒーを前において、竜子はこの店の二階にすわっている。午後五時五十分……  二階には、竜子のほかに、五人のお客しかいなかった。大学生らしい青年と、その相手の子供子供した小娘、会社員らしい中年の男と粋《いき》な水商売らしい和服の女、この二組のアベックのほかには誰か人待ちげな二十七、八の女が一人、暗い顔をしてすわっているだけだった。  さっきから、竜子は火のつかない煙草《たばこ》をくわえて、パチパチと大型のライターを鳴らしていた。と第三者の眼には見えたに違いないが、実はこのライターと見えたのは、イタリー製の『ガミ』という、超小型の精密カメラだった。十六ミリのフィルムをいれ、世界最高に近いレンズの明るさを持つ、このカメラで、竜子はひそかに、この五人の客の顔を写しとっていたのである。  五時五十六分…… 「君、コーヒーをくれたまえ」  階段の途中で声がして、芸術家タイプの男が二階へ上がって来た。  年は三十二、三だろう。紺のベレーを横にかぶり、もじゃもじゃした髪の毛がその下からはみ出している。二、三日、髭《ひげ》を剃《そ》らないのか、いくらか無精《ぶしよう》髭は生やしているが、鋭さと純情さと、ひたむきな一本気とを持った、なかなかの美男子だと竜子は見てとった。  彼は、誰かを探すように、このせまい二階を見まわした。そして、腕時計に眼をやった。  五時五十八分……  もちろん、竜子の片手のカメラは一瞬に、この男の顔と姿とを写しとっていたことはいうまでもない。  ただ、その次の彼の動作は、およそ竜子の意表をついたものだった。彼はどのテーブルにもすわろうとせず、いきなり壁に歩みよった。そして、壁にかかっている額の上に顔をよせ、いきなりその上に口づけしたのだ。 「きゃーっ!」  階段の方で悲鳴が聞こえ、同時にガラスの落ちて砕けるような音がしたのは、きっと水を運んで来たウエイトレスが、この狂態にたまりかねて、盆をとり落としたのだろう。  五時五十九分……  油絵に接吻《せつぷん》した男は、だまってこちらをふりかえった。かすかな笑いを唇の端に浮かべ、舌を出して唇の端をなめ、そして一瞬後には、顔色をかえて、そのまま床に崩れおちた。 「きゃーっ!」  竜子をのぞいた五人の客の唇からは、突然狂ったような悲鳴がほとばしり出た。  午後六時!  竜子は咄嗟《とつさ》にとび上がり、その男のそばにかけよって脈をとった。 「早く、お医者をよんで来て!」  と叫んだものの、これから医者をよんで来て間にあうような容態ではないことは、竜子にも、一瞬の間にわかったのだ。  竜子は、溜息をつきながら立ちあがって、その油絵の額を見つめた。  人間、それもたしかに女の絵——東郷青児《とうごうせいじ》の亜流のようなこの絵の女には、何の表情もなかったのだ。ただのっぺりとした、顔のような卵形の輪郭《りんかく》の中に、唇だけが一つ、眼のさめるような真紅《しんく》に彩られて—— 「これが……これが、顔のない女?」  まるで譫言《うわごと》のような声でつぶやき、瞬きもせずに、この油絵の女を見つめ、竜子は身じろぎもせずにそのまま立ちつづけていた。     二 「あれだけ忠告しておいたのに、君はまだ、こんな危い商売から足を洗わないのかい?」  警視庁の松隈警部補は、愛想をつかしたようにいって竜子の顔を見つめた。死んだ竜子の夫の雄太郎《ゆうたろう》とは、兄弟のような仲だったので、いまでもまるで親身のような口をきく。 「そのあとのせりふは、うかがわなくてもわかってるわ。君だけの財産があり、器量があればどこへでもお嫁に行けるだろう。女だてらに、探偵なんて阿呆《あほう》な仕事はやめたまえ——というんでしょう」 「自分で、それだけのみこんでいれば世話はない。ところで、今日は何の用だい?」 「ラムールの絵が人を殺した事件」 「知ってたのか?」 「わたし、あの現場にいたのよ。こんな手紙によび出されて——でも、警察へつれて行かれるのはいやだから、でたらめの住所氏名をいって帰って来ちゃった。でも、おかげで仕事がはかどったわ。これ、殺人の組写真」  きれいに手札の大きさに引き伸ばされた十何枚の写真を、警部は物憂《ものう》げに一枚一枚眼を通して、 「殺人じゃない。自殺だよ。あの絵かきはいい加減気が狂っていたんだ」 「どうして?」 「あれは自分がかいた絵だ。たしかにこの手紙に書いてあるように『顔のない女』という題だが、何しろ上下ひっくりかえして壁にかけたとしても、ああそうかと思うような作品だろう。あんな絵を描くような人間は、初めから頭がどうかしている。頭がどうかしていなかったら、人前で自分の描いた絵にキスなんかするものか。そんな人間だから、自殺したところで、何のふしぎもない」 「三段論法か五段論法か知れないけれど、全然いただけないわねえ。そのお話は……」 「死因は青酸中毒だ。君も目撃していたろうけれど、彼はあの店では水一口も飲んではいない。君を加えて六人のお客は、指一本彼の体にさわっていない。だから、理屈をすすめて行くと、こんなことになるんじゃないか。彼は芸術上の行きづまりか何かで、自殺を考えた。しかし、気が変になっていたことだから、万一他殺と思われてはいけない。自分の死んだことから、他人が殺人の罪に問われてはいけないと、よけいなことまで考えて、電話帳か何かをひろげて見つかった君をその証人に選んだ。そして階段を上がる途中で青酸カリをなめて、自分の傑作に接吻して倒れた。こう考えれば、万事筋道が通るじゃないか」 「気ちがいのしわざときめてかかれば、どんなふしぎなことだって、筋道の通らないことはなくってよ」  竜子は一歩もゆずらなかった。 「ところで、殺された絵かきさん、どんな人?」 「死んだ絵かきだね。倉田雄三《くらたゆうぞう》という名前で、中野のK町に住んでいる。何しろ、名もないへっぽこ絵かきで、あんな風な、わけのわからない絵ばかり描いているもんだから、生活の方は赤貧洗うがごとく、食うものにも事をかいていたらしい。あの店のマスターの相馬健夫《そうまたけお》というのが、何かの拍子であの絵かきを知っていたものだから、その縁故で、一枚だけ買ってやった。それがあの絵だ」  竜子は鋭く瞳《ひとみ》を輝かせて、その話に聞きいっていた。 「気がちがっていた——という理由はほかにもあるんだよ。いまいったような始末で、方々から借金の催促をされるもんだから、そのいいわけにも困ったんだろうが、この一週間ぐらいは、そのいいわけのせりふがかわって来たらしい。三百号の大作が、三十万で売れる契約が出来たから、その金が入ったら借りをはらうと、ふン、三百号の大作だなんて、キャンバスを買う金さえなかったろうに……」 「それで、あの絵のモデルは誰だったの?」 「モデル? モデルというのは、その絵なり写真なりとつきあわせて見たときに、なるほどよく似ているとか、なるほどよくこんな特徴をつかんだとか、そこまで行ったときに、初めてモデルの意義があるんだよ。あんな、卵に唇だけ描いたような絵に、モデルもへちまもいるものか」 「松隈さん、あなたは芸術というものがわからないのね。芸術家というものは、何かの感興を刺戟《しげき》されないと、作品を生むことは出来ないのよ。たとえ、卵に眼鼻をつけたような絵でも、それが出来上がるまでには、誰かあの人の魂をゆり動かした女の人がいたはずよ。それと同じで、わたくしもこの事件には魂をゆすぶられてしまったわ。どうしてもこの秘密を解いて、殺人犯人をあなたにおみやげにしてあげるから」 「君の失敗を心から祈っているよ」  松隈警部補は、べつにからかうような顔でもなく、まじめな調子でこういった。     三  碁仇《ごがたき》は憎さも憎しなつかしし——と川柳にもうたわれているように、好敵手というものに対する感情には、第三者のどうしても理解出来ないものがある。  松隈警部補の竜子に対する感情も、恐らくこんな種類のものだったろう。面とむかうと、いいたい放題の悪口を、かたっぱしからあびせるくせに、竜子の鋭い直感と男まさりの勇気とを警部補はほかの誰よりも高く買っていた。恋の愛のという仲ではなく、人物そのものに惚《ほ》れているのだ。  だから、今度の事件にしても竜子にこんないい方をされて見ると、いままで鉄石のようだった確信がゆらいで来たのもふしぎなことではない。一度戸棚へしまいこんだ書類をもう一度とり出して来て、あれやこれやと、ページをくり直しているうちに部下の刑事がやって来て、奇妙な報告をはじめた。 「警部補殿。例の気違い絵描きの件が、ちょっとおかしなことになったんですがね」 「おかしなことって、どういうことだ?」 「今朝、大家《おおや》のところへ、妙な女がやって来たそうです。キャバレーかバーのホステスらしい、粋《いき》な女だったといいますが、自分で倉田の家内だと名のって、たまっていた家賃なんかをきれいに払ったんで、家主の方もすっかり信用したんですねえ、ちょっと事情があって別居して、京都で働いているという話を、すっかり真《ま》にうけてしまったんですね」 「うむ、それで?」 「そんなわけだから、家の鍵も当然わたしたんですね。女は家の中へ入って、何かひっかきまわしていた。そして、何かを手に入れたんですね。用事がすんだもんだから、警視庁へ顔を出して来るといって、鍵をかえして、その時にもし、警察から誰かが来たら、これをわたしてくれといって……」  刑事は、警部補の机の上に、小さな目薬の瓶《びん》ぐらいの薬瓶をおいた。その蓋《ふた》をぬいて、臭《にお》いをかいだ警部補は、とび上がらんばかりに驚いて、 「畜生! こいつは青酸カリだ!」 「私もそう思ったんです……それで早速警部補殿へ報告しなければ……と思いまして。それから、もう一つ妙なことが」 「何だ」 「あの男が死ぬ前にキスをした、あの妙チクリンな油絵ですね。あれは、わたしをモデルにしたのよと、家主にいっていたようです」 「顔のない女だ!」  警部補は思わずとび上がった。 「畜生! こっちの隙《すき》をねらって、見事に空巣ねらいをやりやがったな……いったい、そのかすめて行った品物というのは何だろう?」 「私に、そんなことを聞かれても……ただ、警部補殿、これはこのままにはしておけませんな。いままで、自殺ときめこんでいたのも、ちょっと早合点の嫌《きら》いがあったようですな」 「うん」  警部補はつめたくなったお茶といっしょに、苦い悔恨をのみこんだ。またしても、竜子に鼻を高くされたかという口惜しさが、喉《のど》のあたりまでこみあげて来た。 「まあ、君子は豹変《ひようへん》す——というから、前の説にはそれほどこだわらなくてもいいだろう。大家のほかにも、その女を目撃した人物は何人かいるだろうから、その連中を警視庁へよんで、モンタージュ写真を作らせる。万事はそれから後の話だ」  次には、どんな手をうとうかと思いながら、警部補は受話器をとりあげて、竜子の事務所をよび出した。 「先生は御旅行中でございます」 「旅行? どちらへ?」 「先生のお母様がおわるくって、おくにの方へ——二週間ぐらいはかかるだろうとおっしゃっておいででございました」 「九州へ……」  警部補は一面ほっとし、一面がっかりして、 「それでは、もし、九州から連絡があったら、松隈がお面を一本とられたといっていた——と言伝《ことづて》してくれたまえ」  といい残して、受話器をかけた。かすかな苦笑もいまは消えて、獲物《えもの》に飢えた猛獣のような精悍《せいかん》な光が、その両眼に浮かびあがった。——謎《なぞ》の女ははたして何者? 顔のない女は何のため、青酸カリの小瓶を残して姿を消したのだ? 雑然として無一物に近いこの貧乏画家の住居から、いったい何を持ち出したのだ? いや、それよりも、この画家はいったいなぜ、あんな方法で殺されたのだ?  警部補の狼狽《ろうばい》をあざ笑うように、その晩、九州からは、竜子の電報が、警部補の家に電話で送達されて来た。 �オミコミチガ イバ ンザ イ ヒツカエスマデ ナゾ ガ トケルカ カワシマ� 「解けなくってどうする。人をなめるのも、いい加減にしやがれ」  電話で送られてきた、電報のメモをくしゃくしゃに握りつぶして、警部補は竜子が、眼前にいるかのような勢いでどなりたてた。     四  捜査は殺人という見地から、再開された。といって、新たな線が、はっきりしたというわけではない。  顔のない女の探索は、モンタージュ写真が出来るまで、お預けにして、警部補はとりあえず、ラムールの店を訪ねて見た。  都会人の神経というものは、よほど特別の細胞から出来ているらしい。一方ではノイローゼ、ノイローゼとさわぎたてて、新薬に眼の色をかえるかと思えば、一方ではまたマンボの狂熱的なリズムに腰をふり、こんな殺人事件の起こった喫茶店などには、もう誰《だれ》もよりつかないかと思うと、かえって前よりも大勢のお客がつめかけて、商売|繁昌《はんじよう》だというのだから、いい加減、神経の異常な犯罪者ばかりあつかっている松隈警部補も、さすがにわけがわからなくなってしまった。  マスターの相馬健夫も、肉づきのよい顔にかすかな笑いを浮かべて、警部補を迎えた。 「警部補さん……えらいことになりましたよ。あんな縁起の悪い絵は、屑屋《くずや》へでも払い下げて、かわりの何かを、かけようと思っていたんです。ところが、どういうことでしょう。二階は、わかい女の子でいっぱいで、  ——まあ、この絵大変な傑作ねえ。  と溜息《ためいき》をついて見たり、  ——この絵はきっと、その絵かきさんの恋人をモデルにしたのよ。毒をのみながら、その顔にキスして倒れるなんて、とってもロマンチックで、とってもすばらしいじゃない?  といって見たり、はずすどころじゃないんです。今時の若い女の子の心理というやつは全くわかりませんねえ」  このマスターは、そろそろ六十に近いだろう。なるほどティーンエイジャーの女の心をつかむには、少し年を食いすぎてはいるが、それにしても、人が死んだおかげで店が繁昌するのを喜ぶ表情をあらわに見せるとは、少し不謹慎だと警部補は思った。 「わかりませんよ。人生というものは——何が幸福を持って来るか不幸をもって来るか、福と禍《わざわい》はあざなえる縄《なわ》のごとしと、古人もうまいことをいっているじゃありませんか」 「本当に不思議なものですね。昨日、画商から聞いたんですけれど、倉田君の絵は、この事件があってから、物すごく値上がりしたそうじゃありませんか。郷党のよしみで私も金を溝《どぶ》に捨てるつもりではらったんですが……彼だって、自分が自殺してから、その作品がこれほど認められるとは、思ってもいなかったことでしょうね」 「自殺ではありません。殺されたのです」  警部補の言葉に、相手はうたれたように顔色をかえた。 「殺された? 誰に? 薬は青酸カリなんでしょう。それなのに……」 「今日も、警視庁でさんざん、その問題がむし返されましてね。最近、ビタミンや何かがみな色のついた、かたい錠剤になってるでしょう。ちょっと器用な人間なら、あれを二つに割って、中を細工することが出来るんですね。その中に青酸カリをつめこんで、また、もとのように一つにあわせておいたんじゃないかと、そんな意見までとび出しましてね」 「でも、警部補さん、あなたは倉田君が気ちがいだという説に、力こぶを入れておられたんじゃありませんか。それがどうして……」 「われわれは、実際家ですからね……決して一つの説にこだわりはしませんよ。一つの仮定で事件が説明出来ないとなると、何のこだわりもなく、前の説を撤回しますからね。あの絵のモデルが誰だったか、あなたはお聞きになっていませんか?」 「わたくし……」  突然、警部補の背後から、憂いに重く沈んだような女の声が聞こえて来た。はっと思ってふりかえると、そこには、喪服のような黒っぽい洋服を着こんだ、この店のマダム、春枝《はるえ》が立っていた。  この夫から見ればまるで子供のような年輩——その美しい顔も仮面のようにこわばって、何か人知れぬ悲哀と秘密を、その下にかくしているように思われる。 「奥さん? 奥さんが、あの絵のモデル?」  警部補もちょっと眼を見はった。 「これは失礼をいたしました。とんだお見それをしてしまって——私は何しろ、新しい芸術というものは、さっぱりわからない方で、何しろ、あの絵は頗《すこぶ》る高尚難解な傑作なものですから……」 「誰にだって、難解きわまるものですよ」  健夫も苦虫をかみつぶしたような顔で、 「金に困っているというので、それじゃあ、僕たちの肖像画を描いてくれたら、お礼をしようといったんです。そうしたら、僕はこれでも芸術家のはしくれのつもりだから、写真のように、黒子《ほくろ》一つ、皺《しわ》一つまで細かく何の違いもなく——というようなわけには参りません、というんでしょう。そんなことぐらいわかってるよといったところが、あんなに奇々怪々な、のっぺらぼうが口紅を塗ったようなものを持ちこまれて——ものは、いやしくも肖像でしょう。肖像というものは、いくら何でも、本人と二人ならべておいたら、この人物を描いたんだということがわからなくちゃあ」  もっとも至極な理論なのだ。芸術というものに興味と理解を持たない普通の人間だったなら、誰でもこのぐらいのことをいうにきまっている。警部補もただ、苦笑いをするしかほかに方法もなかった。 「でも、警部補さん、どうしてまた、一旦《いつたん》自殺におちつきかけていた今度の事件が、殺人ということになったんです?」  警部補は、やむを得ず、彼の住居にあらわれた謎の女のことを話してきかせた。ただ、川島竜子が最初から、そういう意見を持っていたということだけは、いくら何でも、体面上話すわけにも行かなかった。 「それで、いま、あなたはお二人の肖像画を依頼した——とおっしゃいましたね。奥さんの方は、その二階にあるとして、あなたの方は?」 「それが……また、妙なことで……」  相馬健夫の顔には、かすかに不安の影がかすめた。 「全く不思議なんですが……その絵は家においといたんです。顔のない男じゃ、店に飾っておくにしても、少し色気がなさすぎますからね。ところが昨夜、泥棒が入って、その絵を盗んで逃げたんですよ」 「何ですって?」 「どうして、あんなものに狙《ねら》いをつけたか、ほかには何の被害もないのに……いくら値上がりしたからって、倉田君の絵の値段なんか知れてるでしょう。それなのにねえ……警部補さん。いまお話をきいているうちに、ふと思いついたんですが、倉田君の女房だといっている謎の女——そいつが何かの理由で、倉田君の描いた絵を集めたがっているんじゃありませんか? きっと、額縁のどこかに仕掛がしてあって、宝石か何かかくしてあるので」  そこまでは少し想像も飛躍しすぎるが、警部補はこの一|対《つい》の絵の二枚目が盗まれたということになぜか、たまらない不安と恐怖とを感じていた。     五  この絵の盗難という新事実のほかには、大した収穫も得られずに警部補がこの店をひきあげて、五、六丁行ったときだった。店のウエイトレスらしいわかい女が、息をはずませながら、警部補のあとを追って来た。 「松隈さんですわね。マダムが、これをわたして下さいと申しておりました」 「ありがとう」  女の手から、一枚の紙片をうけとって、警部補は街燈の下へ近づき、急いでそれに眼を通した。 「私は、顔のない女に殺されます。わたしを護《まも》って——ただ主人にはこのことは秘密に」  よほどあわてて書いたのだろう、卓上カレンダーを一枚、メモのかわりにちぎって、その上に鉛筆で走り書きしたこの文句には、何ともいえない乱れがある。  ごくりと警部補は生唾《なまつば》をのみこんだ。 「君、ちょっとききたいことがあるんだが」 「何ですの?」 「君はあの店につとめて、何年になる?」 「二年近くになりますの」 「名前は?」 「小松園子《こまつそのこ》と申します」 「小松君だね。今晩、店がすんでから、つきあってもらえないかね?」  警部補の方に、何かの野心があると思ったのか、ぎくりとしたように身をひくのを、 「誤解しないでくれたまえ。君も知ってるだろうけれど、僕は警視庁捜査一課の警部補で、この間の事件のことについて聞きたいんだ」 「どんなことですの?」 「マスターとマダムとの間には、あの絵かきさんをめぐって、何か、いざこざのようなものがあったんじゃないのかね?」 「わたくしの名前を……わたくしから、聞いたとおっしゃらないと約束して下さる?」 「もちろんだとも……君には迷惑をかけやしないよ」 「じゃあ申します。倉田さんは、マダムの初恋の人だったんです。女というものは、ふしぎなものなんですね。捨てられて、ほかの女に見かえられて、それから何年かたって、自分の眼の前に、あんなみじめな恰好であらわれたのに……その人のことを、どうしても忘れきれなかったんですね。親子ほど年の違う御夫婦でしょう。いくら、お金があっても、それだけじゃあ……」  警部補は思わずよろめいていた。倉田雄三がその最後の瞬間にあの絵に接吻したわけも、いまの相馬夫婦の会話に、何となく、奇妙な陰影が感じられたのも、おぼろげに、想像出来るような気がしたのだ。 「君は、君は、あの絵描きさんが倒れた時、店にいたのかね?」 「おりましたわ」 「何か、不思議なことには気がつかなかったかい?」 「あの前に、二階へ上がったとき、あの絵の唇が、何となく濡《ぬ》れているように思いましたわ。誰か毒の入った液を、あそこに塗ってたんじゃありません?」  警部補も思わずあっと叫んだ。どうして毒を飲ませたのか、その方法は今まで想像も出来なかったが——こんな方法もあったのだ。殺人の方法としてはあまりに奇抜、あまりにも意表をついた方法だが、それではこの犯人はどうして、この画家が画像の唇に接吻することを知っていたのだ? それも一分一秒もたがわぬ、午後の六時ちょうどに…… 「御用だったら、わたくし明日、警視庁の方へ参りますわ。夜、あんまり遅くなると、母が心配しますもの……」 「待って、君、待ってくれ!」  警部補がひきとめるのをふりきって、相手はばたばたと店の方へかけ出して行った。  警部補はかけ出して、その跡を追おうともしなかった。一つは年から来る体面、一つにはいまの女の言葉が、あまりにも激しく、彼の心をゆすぶっていたためだった。  首をたれて考えこみながら、警部補はゆっくりとラムールの店へひっかえした。マスターが、驚いたように眼を見はって、 「警部補さん、何かお忘れものでも?」 「マダムに、もう一言聞くことがあったのを忘れてたので……」 「あいにく、気分が悪いといって、たったいま帰って行きましたが、そのへんでおあいになりませんでしたか?」  警部補は、はっと眼をあげて、店の中を見まわした。煙草の煙と人いきれでむっとするような、この店の中には、どこにも、マダムの姿も、あの小松園子の姿も見えなかった。     六  川島竜子が、警視庁の警部補の部屋へやって来たのはその翌日のことだった。 「警部補さん、いかがでございます? 謎《なぞ》はおとけになりまして?」  悪戯《いたずら》っ子のような眼を見て、警部補はいよいよ苦い顔になった。 「九州へ往復して来たにしちゃ、えらく早かったじゃないか?」 「あら、飛行機に乗れば片道半日もかからないわよ。こんな忙しい商売なのに、そうそう遊んでもいられないじゃありません? それよりあの事件の謎は解けまして?」 「残念ながら半分ぐらい——まあ、いい知恵があったら貸してくれたまえ」  警部補の手短かに話しつづける一部始終をきいて、竜子はぴりりと眉《まゆ》をひそめた。 「松隈さん、あなたはそんな調子でよくこのお仕事がつとまるわね。その小松園子とかいう女の人が、今日ここへ訪ねて来ると思っているの?」  思わずぎくりと顔をあげた警部補へ、電話の受話器をつきつけて、 「もし、わたくしの勘が違ってると思ったら、あの店へ電話をかけて、そんな名前の女の人が、つとめているか、どうかを確かめてごらんなさい」  竜子の言葉には、警部補もはっとしたくらいの自信と力がこもっていた。数分後、電話をかけ終えた警部補は呆然《ぼうぜん》と受話器をかけて、 「いない……たしかに君のいう通りだ。だがあの女はいったい……」 「わたくしの想像に誤りがなければ、その女が倉田さんの家にあらわれて、何かをさらって逃げた謎の女——もう一枚の絵を盗んだというその犯人」 「でも、どうして、その女が、僕にあんな紙片を?」 「この事件が、第一幕だけで終わると思っているの? その女は、あなたに第一幕の殺人方法をうちあけながら、それとなく、殺人の第二幕を予告したのよ。第一幕の時には、わたくしに手紙をくれたけど、今度は少し趣向を変えて来たのね」 「それじゃあ、今度は誰が殺されるんだ? いったい誰が犯人なんだ?」 「そこまでは、わたくしにもわからないわ。ただ、昨夜頭が痛いといって、早く家へ帰ったというラムールのマダムが家にいるかどうか、一応だめをおしておく必要はあるでしょうね」  警部補はあやつり人形のように、竜子の意志に従って動いていた。警察電話で、相馬家の近くの交番をよび出し、三十分後にかかって来た報告の電話をきいて、大きく溜息をつきながら、 「参った。女中から聞いたところじゃあ、マダムは昨夜から家へは帰っていないそうだ」 「御覧なさい。マダムは生きているかしら?」 「おどかすなよ。今度はマダムの方が顔のない男とキスをして倒れるのか?」  自分の気持をごまかすようにいったものの、警部補も何となくおびえていた。 「死体が見つからなくっちゃ、あなた方の方は、お仕事にならないかも知れないけれど、わたくしの方は、自分の思う通りに人が動かせるんだから——わたくしは、東京を発《た》つ時から、あのマダムの身辺には、何か妙な事件が起こりゃしないかと心配していたのよ。だから助手を一人、彼女のそばにくっつけて、たえずその跡を追わせていたのよ。その報告によると、彼女は昨夜、何かにおびえたようにあわてて店をとび出すと、一人で新宿のKホテルに泊ったわ。それから今日は倉田さんの家の近くを、まるで気が狂ったような恰好で歩きまわっていたけれど……」 「それで、いまは?」 「そこまでは、わたくしも千里眼じゃないからわからないけれど、わたくしの助手は、いっぺん食い下がったら、まるで、ダニのように離れない方だから、逃がしっこないでしょう。どこかへおちついたら、すぐに電話で報告して来るわ」 「それで君は、彼女を?」 「犯人か、それとも第二の被害者か……少なくとも自分の家から、もう一枚の絵を盗み出してかくしたのは、彼女のしたことに違いないでしょうね。顔のない女にあやつられて……」 「どうして、君は、そんなことを?」 「ほほほほほ、松隈さん、今度は完全にあなたの負けね。これでも、わたくしにこの方面の才能がないなんておっしゃるの?」  勝ち誇ったような笑いを残し、竜子は部屋を出て行った。     七  その夜、警部補は電話で竜子から新宿のある喫茶店へよび出された。 「松隈さん、今晩は例の事件の犯人をお土産《みやげ》にさしあげるわ」  警部補は、完全にノックアウトされて二の句がつげなかった。 「それから『顔のない女』にも紹介してあげるわね」 「君はいったい……」 「そのかわり、一つだけ注文があるの。あなたは殺人事件の犯人を捕えれば、それで十分の手柄になるんでしょう。だから、大の虫を殺すために、小の虫を生かして下さいな」 「何が大の虫で、何が小の虫なんだい?」 「これから御案内しようと思っているところは、あなたのような警察のお方には、全く苦々しい場所なのよ。すぐにでも手を入れてたたきつぶしてやりたいでしょうが、そこのところは御勘弁をいただきたいの」 「ポン窟《くつ》か? それとも鉄火場か?」 「そうじゃないのよ。あれののぞき専門のホテルなのよ」  警部補も、緊張を忘れてぷっとふき出した。 「そういう場所を知っているとは、さては姫御前《ひめごぜん》、ひとり寝《ぬ》る夜は足びきの山鳥の尾のしだり尾の長々しいな」 「冗談いっちゃ困るわよ。商売商売、この商売じゃ、どんなところでも知ってるわ。約束して下さる?」 「大の虫を死刑にしてやるために、涙をのんで小の虫を生かすとしよう」  警部補のさし出した手をかたく握りしめて、 「話せるわね。では行きましょう」  竜子は、警部補の先に立って店を出ると、五、六丁歩いて、暗いりっぱな洋館の前で足をとめた。 「ここか? さかさくらげのネオンは出てないじゃないか?」 「しッ!」  竜子は、警部補のあたりかまわぬ大声をさえぎると、ベルを短く二回、長く一回、つづけて短く三回おした。  これが規定の合図なのだろう。扉が開いて、一人の男が顔を出した。その耳に何かささやきながら、竜子はその手に小さな紙包を握らせた。万事心得ているのだろう。その男は竜子たちを二階の小部屋に案内した。大きなベッドも安楽椅子も、一応普通の連れ込み宿の部屋の体裁は備えているが、警部補が何より眼を見はったのは、壁の上にはられた大きな一枚ガラスだった。 「おい、おい、冗談じゃあないぜ。これじゃあ、むこうものぞけるかわりに、こっちも丸見えじゃないか?」 「わたくしをくどくつもりだったの?」  竜子もかわいい八重歯を見せて笑った。 「松隈さん、あなた犯罪科学を知ってんの? こっちから見ればただのガラス、むこうから見ればただの鏡——ほら、警視庁にもこんな部屋があったでしょう」  警部補も思わず呻《うめ》いてしまった。 「なるほど、毒も使いようで薬になるというがねえ。犯罪科学というものは、いったい犯罪を捜査するための科学か? それとも犯罪をおかすのを助けるための科学だろうか?」 「哲学者みたいに、そんな瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っていても仕方がないわ。この世に存在するすべての物は要するにその存在価値を認めて利用すればいいの。はい、これがおとなりの二人の睦言《むつごと》を聞くためのレシーバー」  よほど、この部屋の案内には通じているのか、竜子は鏡の下の戸棚を開けて、ポータブルのラジオについているような、小さなイヤホーンを二つとり出した。  その一つを耳につっこんで、透明鏡の中を見つめた時、警部補ははっと息をのんだ。鏡の中の——隣りの部屋の扉が開き、二人の男女が部屋に入って来たのである。  女は——いずれは夜ひらく毒を含んだ街の女か? まだ若い、二十二、三のけばけばしい化粧をした女だった。その顔は、警部補にも全く見おぼえがなかった。  だが男は——あのラムールのマスター、相馬健夫だった。 「いい部屋だな。歩合も大分とられるだろう」  そういいながら、鏡の方に近づいて来た彼の姿に、警部補ははっと身をひいた。この窓が、むこうからは鏡となって、こっちの様子が見えないことを、すっかり忘れていたのだ。 「四分六よ。赤線や青線では満足出来ないお客さんを喜ばしてあげる素人《しろうと》専門の家だから」 「素人? 君が素人なのか? ふン」  嘲《あざ》けるような健夫の声が、イヤホーンを通して、警部補の耳に、手にとるように聞こえて来た。 「それで、君は死んだ倉田君とは、いったいどんな関係だったんだ?」 「こんな女でもまだ、恋というものは忘れていないのよ。むかしの吉原《よしわら》の花魁《おいらん》だって、情夫というものはいたんじゃない……こんなに体を汚しても、心はまだ、あの人のものだったのね」  寝台に腰をおろして、両脚をふりつづけている女の眼には、うっすらと涙が浮かんでいるようだった。 「わたしはあの人の奥さんだといって、あの人の家を訪ねて行ったのよ。そして、手帳を見つけたの。その手帳には、例の賭《か》けのことが書いてあったのよ。それを見つけて、はっとして……」 「それで、僕をよび出したというわけなのか? それで、家内はどうしたのだ?」 「あなたの奥さん? きれいなお方ね」  女の眼には、明らかな嫉妬《しつと》と敵意が閃《ひらめ》いた。 「ただ、美人というものは十中の八、九まで、頭の方はあんまりよろしくないようね。行ったわ……遠くへ、誰《だれ》も手のとどかない遠くへ」  健夫の眼は、狂おしい色に燃え上がった。 「遠くへ行った? 家内が? それを夫の僕にうちあけて、どうするつもりだ?」 「でも、あの『顔のない男』の油絵には、どんなお薬が塗ってあったんでしょう?」  警部補の心臓は早鐘のように激しく鳴りひびいていた。最初は、竜子が彼をかつごうとして、二人に芝居をさせているのかとも思ったが、それにしては、二人の表情はあまりにも深刻すぎる。その会話もまた、火花を散らさんばかりに緊迫しきっているではないか。  遠くへ——誰も手のとどかない遠くへ——とは、何を意味する言葉だろう。死? 殺人? たしかに、それに違いない。  春枝は、姿を消した『ラムール』のマダムは、この女、顔のない女に殺されたのだ。恋仇《こいがたき》、しかもその女のために、恋人が命を失ったその復讐《ふくしゆう》のためならば、女は時に悪魔ともなる。そして、このような境遇にまで身を沈めた女にとって、悪魔までは、ほんの一歩の距離なのだ……  だが、どうして竜子は、この女の存在を発見したのだ? その助手が、春枝のあとを尾行して、恐らく殺人そのものを目撃したのではあるまいか? その犯人のこの女を——ここまで足どりを追って来て……。このような考えが、一瞬に警部補の頭に狂いまわった。そっと横目で、竜子の方をうかがったが、その姿もいつもとは全く変わってしまっている。唇の端をかみしめ、吸う息吐く息もあらあらしく、ちょっと前かがみの姿勢で鏡の中をのぞきこんでいるその姿は、男女の性別も今は完全に超越しきった、仕事の鬼のように思われた。 「わかるでしょう。この取引が安全確実だというわけが……普通の場合のように、わたしはあなたをゆすれないのよ。おたがいに脛《すね》に傷持つ身なんだから、あなたの罪を密告すればわたしの罪もばれるんだから」 「だがねえ、こうしておたがいに弱点を握りあってのつきあいというものは、実に微妙な力の均衡の上に成立するものなんだよ。ほんの毛ほどの重さの狂いがあっても秤《はかり》の皿《さら》は傾くのだ……」  彼はポケットから、部厚い札束をとり出して女の手にわたし、そのかわりに黒いクロースの手帳をうけとった。 「このことは、君のほかには、誰も知らないのだろうな?」 「ただのゆすりとは、わけが違うと、さっきからそういってるじゃない?」 「よろしい。それでは、家内の死体を見せてもらおうか? それがどこにかくしてあるか——その顔を見たら、君の言葉も信じよう」  竜子は、その時無言のまま、警部補の肩をたたき、イヤホーンをはずして扉の方を指さした。警部補も足音をしのばせて部屋を出た。階段をおり、家の者にまた耳打ちをして、この家を出ると、近くの物かげに身をひそめ、竜子は警部補の耳にささやいた。 「あの女、あなたが『ラムール』の店の外で、紙片をわたされた、小松園子という女に違いないでしょう?」 「たしかに……最初は別人かと思ったが、やっと思い出したよ。あの女だ。僕の眼には絶対狂いがない……」  竜子はとたんに左手で警部補の口をおさえ、右手で自分たちが出て来たばかりの家の入口を指さした。     八  二人の男女を追う、警部補と竜子の追跡は、それほど長くは続かなかった。  新宿にも、駅からほんのわずかの距離に、こんな淋《さび》しいところがあるのかと思われるような道ばかり選《え》りに選って、二人は大きなコンクリートの建物の廃墟《はいきよ》の前にたどりついた。警部補も竜子もこの追跡には、超人的と思われるほどの努力を続けていたのだ。もし、それだけの注意がなかったら、ここまで来る間には、とうに発見されていたろう。  新宿から、いくらか大久保の方へよった、一種の真空地帯だなと、警部補は土地勘を働かせながら前の二人の動きを見つめて、はっとたたずんだ。いきなり男が、女の口をおさえると、その体を横かかえにこの廃墟の中へひきずりこんだ。 「何を……何を、するのよ!」  おしつぶされたような女の声と同時に、 「貴様は誰にたのまれた? 女房にか? それとも……」  とつぶやく、男の悪魔のような声が聞こえた。 「待て!」  警部補は、われを忘れて声をあげた。それと同時に、いつの間に握りしめていたのか、竜子の手にした拳銃がつるべうちに火を吐いたのだ。 「ああッ!」  女の首に手をまわし、いまにも扼殺《やくさつ》しようとしていた相馬健夫は、獣のような悲鳴をあげてふりむいた。女を横につきとばすと、コンクリートの塊をとび越えようとして、つまずき、前につんのめった。その上におどりかかった警部補はすばやく、相手の腕を後ろにねじりあげ、ガチャリと手錠をかけながら、竜子の方へふりかえって、 「君、その女の方を逃がさんで……」 「この人は逃げっこないわ」 「どうして? もう、殺されてしまったのか」 「いいえ、この人は罪を犯していないもの」 「何だって!」警部補は今や憤然として、 「ラムールのマダムを殺したのは嘘《うそ》だったのか? いや、それにしても、恐喝《きようかつ》罪と家宅侵入罪と窃盗罪は、たしかに成立するはずだ」 「でも、大の虫を殺すためには、小の虫は生かすという約束だったじゃないの? この人はわたくしのお友達——今度の事件解決には大いに功績があったんじゃなくって」 「何をいう? 第一、君もけしからん。そんなにピストルをぶっぱなして——正当防衛だって成立しはしないぞ。君の射撃がまずかったから、殺人罪はおかさないでもすんだが」 「あら、これを本物のピストルだと思っているの?」竜子は、腹をかかえて笑った。 「何しろ警部補さん、あなたは御商売が御商売なのに、ラムールの店の前で、あなたに紙片をわたした女を、この人だと思っていたんでしょう。あれは、わたくしだったのよ。人間の眼というものはあの通り不完全きわまるものだから、今度は科学的に絶対確実な証拠をおさえてやろうと思って——ピストル型の八ミリカメラは、日本の警視庁で使われていませんのかしら? 夜暗いところでも、写真が写せるように、マグネシウムの閃光《せんこう》粉の入った弾丸は、そのカメラの付属品ではありませんかしら」  松隈警部補はリングの上にぶちのめされて、レフリーが十数えるのを聞いたような気がした。 「結局、犯罪者というものは、自分の虚栄心のために身をあやまるものね。人もあろうにわたくしを、その殺人の証人に選んだというのが、そもそも間違いのもとだわ」  この事件の終わった直後、竜子は警部補に笑いながらいった。 「あの絵かきさん、よっぽどお金に困っていたのよ。それを見ぬいて、三十万円の賭けをする……店の二階で、みんなのいる前で、油絵にキスが出来るかという賭けを……その唇に青酸カリを塗っておけば……」 「あまりにも奇想天外な殺人だが……よく、その賭けにのったものだ!」 「あの絵かきさん、本当にマダムを愛していたんでしょうね。そうでもなくっちゃ……それにあの犯人にしたところで、嫉妬《しつと》のあまり、人殺しをするだけのことはあったのよ。あの絵の顔は——ほんとに卵に唇だけだったけど、あの胸のお乳の下の黒子《ほくろ》は、旦那《だんな》さんか恋人でもなければ気がつかない特長だったんでしょうから——わたしは九州へは行かなかったの。あの絵かきさんの家へしのびこんで、あなたの注意をもう一度、この事件にひきつけておいて、それから、マダムにあったのよ。女は女同士だから、あの人も秘密をすっかりうちあけてくれたわ。それからこんな芝居をうったの、顔のない女に化けて、命がけの芝居をしてくれた、あの人の罪は問わない約束でしたわね? わたくしのような商売を続けるためには、どんな場所にでも、心からのお友達というのがなくちゃならないのよ」  警部補は初めて、竜子の言葉に、女らしい感情を感じていた。 「だけど、あの男の方の絵もかくしておいてよかったわ。その唇にも青酸カリが塗ってあったの。犯人は、何かに青酸カリをいれて、マダムまで毒殺し、またこの絵にキスして死んだように思わせるつもりだったのね。気ちがいよ。殺人犯人なんてものは、みな頭の細胞のどこかが狂っているのね。でもなかったら『顔のない女』のトリックにはひっかからないわ」 「君と、君のお友達の小罪はとがめないが、いつも柳の下にどじょうはいないぜ。これから後は女だてらに……」 「また、始まった。十八番が……」  竜子は何の屈託もなく笑った。 「でも、結局わたしが出しゃばったんで、マダムの命が助かったんでしょう。それに、あなたと面とむかって、わたしだということが見やぶれなかったんだから、変装の方にも断然自信が出来たわ。これからは『顔のない女』と名のろうかしら……」 「心臓のない女と名のるんだね」 「また悪口?」竜子は立ち上がると、子供のようにあどけない顔で笑った。 「おかげで四、五日、全然退屈しなかったけど、これからはまた単調にして平凡な一日一日が続きそうね。どこかまた、眼のさめるような怪事件は転がっていないかしら?」   蛇 魂     一 「先生、わたくし何に見えますでしょうか」  これが、今度の依頼者の奇妙な第一声だった。  若く美しく品もあり、一面|妖艶《ようえん》な媚態《びたい》も感じられる女にこんな質問を投げかけられては、さすがの私立探偵大前田英策も呆然《ぼうぜん》としないではおられなかった。 「半未亡人——御亭主のいる未亡人ですかな」  女の顔には、ちらりと奇妙な影がかすめた。この当意即妙の返答が、何か心の奥にひそむ傷口にさわったのかも知れないが、一瞬後には、その動揺をかくそうとするのか、嬌笑《きようしよう》といいたいような笑いをもらして、 「まあ、フランスには半処女という言葉もあるようですけれど、半未亡人というのは、わたくし初めてですわ。それ、先生のおつくりになった新語ですの?」 「そういうわけではありませんが、僕の友達に小説家が一人いましてね。時々、妙な熟語を新造するんです。たとえばドンパパ——ドンドンパッパ、ドンパッパとかいう歌の文句かと思ったら、うちのパパはドン・ファン、女たらしだということを、略してドン・パパというんだそうですね。これには私も驚きました」  依頼者が、何か重大な用件で訪れたと見たときには、わざとこういう駄弁を弄《ろう》して、そのはりつめた気持をほぐすのが、英策の一つの技術だった。  これには、相手も口にハンケチをあて、笑いをしきりに噛《か》みつぶしていたが、その間に英策は煙草《たばこ》に火をつけ、じっと女の全貌《ぜんぼう》を観察していた。  年はまだ二十七、八にしかならないだろう。  わざと渋い黒っぽい和服に装ってはいるが、それがかえって、卵をむいたような肌目《きめ》の細かい色白な肌を一段とひきたてていた。  上から下まで、身につけているものは一流品中の一流品らしいし、指にさりげなくはめている指環のダイヤも一カラットはあるだろう。  額のひろく鼻筋が高く通っているあたりは、どことなく高貴の生まれを思わせるが、それでいて眼から唇の感じには、すべてを理性で割り切ろうとする冷たい打算性も感じられないことはない。  むかし、北欧のモナ・リザ、映画の女王といわれたグレタ・ガルボのことを、英策はちょっと頭に連想していた。  笑いをおさめた女、石垣由美子《いしがきゆみこ》は、かすかな靨《えくぼ》を浮かべながら、 「それは、たとえば男性ホルモンの欠乏に悩んでいるという意味でしょうか? それとも後家相だという意味でしょうか?」 「半未亡人のことですか? いや、ふいと思いついた印象を口に出しただけですから、あんまりお気になさっては困りますがね」 「でも、先生は人相も大分御研究になったそうじゃございませんか?」 「べつに、高島《たかしま》易断か何かに通って特に勉強したわけじゃありませんが、何しろ、人間相手の商売ですから、自然自然に勘も鋭くなってくるのでしょうね。いうなれば、大前田流観相術とでもいいますかねえ」 「それが……その人相の極意には、人間動物学というものがあるそうですけれど、そのことについては御存知ありませんか?」 「二十の扉——いや、普通一般の考え方では、人間は動物ということになっているようですが、それに異説があるのですか?」 「そういうわけではないんです。人間は、誰《だれ》でも何か動物の霊を背負って生まれている——その動物の霊魂が、その人物の性格を支配する——別に十二支の干支ではなくって、一人一人が固有の動物につきまとわれている——熟練した人相見には、一目見ただけで、ああ、猿《さる》が背広を着ているとか、みみずくが浴衣《ゆかた》を着ているとか分るそうですけれど、それはいったい本当でしょうか?」  どうも私立探偵の事務所へ訪ねて来て、持ち出す問題としては、かなりおかしな話題だったが、英策はいつもよりずうっと真面目《まじめ》な顔をして、 「なるほど、それで最初、何に見えるかとおたずねになったのですね? そういう動物学の見地から以《もつ》てするならば——白孔雀《しろくじやく》とでもたとえましょうか」 「お上手でいらっしゃいますわね。ところが、蛇《へび》だという人がいるんです」 「蛇? 奥さんを蛇の生まれかわりにたとえるとは、いかに人間動物学の見地からしても、大いにけしからん話ですな。もっとも、古い伝説では、蛇は修業を積めば化して竜となるというし、弁天様の化身《けしん》は竜だともいいますから、そちらにたとえたんですかねえ」 「さあ、そこまではわたくしにも分りませんわ。それで先生にお願いと申すのは、わたくしが本当に蛇かどうかを探り出していただきたいのです」  この依頼には、英策も完全にノックアウトされたような状態となって、しばらく返事が出て来なかった。  石垣由美子はまるで子供のようにあどけない笑いとともに、ハンドバッグの口金を開け、五万円の札束をとり出して、それをデスクの上におくと、 「僅少《きんしよう》ですけれど、これがお礼でございます。これでは不足でございましょうか?」 「不足にも何にも——いままでずいぶん、いろんな事件もとりあつかいましたが、人間動物学の調査というものは前代未聞で、正直なところ、奥さんをヌードにして、どこかに鱗《うろこ》が生えていないかと調べるわけにも行きませんから、手元|不如意《ふによい》の折柄、まことに残念ですが、これはお返しいたしましょう」  石垣由美子は、もう笑いもしなかった。何か思いつめたような、真剣な顔で、 「いいえ、先生ならばお出来になります。そう信じておればこそ、こうしてお願いに上がったのでございます」 「それはどうして?」 「わたくしが蛇かどうかは別として、そういうことをいい出した人間が、信用出来る人物か、どうかは調べていただけますでしょう?」 「なるほど、問題が、人間学の分野に入ってくれば、それは出来ないこともありませんが、その相手は?」 「水口宇宙夫《みなくちうつお》という予言者なんです。住所はここに控えておきました」  由美子は、一枚のメモ用紙をとり出して、その五万円の束の上にのせた。 「その予言者が、インチキだったらそれでいいんです。ただ、彼が本当に、自分のいうように、天上天下、過去未来、あらゆることを見ぬく能力があるとしたら、わたくしも考え直さねばなりません」 「奥さん」  英策も、今までの軽口をたたくような態度を捨てて、由美子の顔をきっと見つめた。 「奥さんは、それはお金には不自由をなさっておられないでしょうけれど、社会一般の通念では、五万円というのは一応の大金ですよ。単なる安心のために、気休め料として投げ出されるには額が多すぎます。蛇の生まれかわりか、そうでないかということに、それほど重大な意味があるのですか?」 「ございます」  由美子は声をふるわせて、 「過去のことは、本当にぴたりぴたりでした。誰も知らないはずの体の特徴まで、ずばりとあてられてしまいました……それだけならばまだしもですが、未来のことが気になるのです」 「それは?」 「わたくしは、人を殺すというのです。死刑にまではならないとしても、十五年は刑務所へ行かなくっちゃなるまい。そして、その刑期をつとめ終わらないうちに獄死するというのです」     二  易者というものは、職業道徳として、人の寿命を論ずることは禁止されている。  それよりも更に上まわったこの言葉には、英策も腹の底から憤らずにはおられなかった。 「とんでもないことをいう予言者があったものですな。それは人間、何かのはずみで、過失致死罪ぐらいはおかすことがないとはいえないかも知れないけれど、そんなのは、たかが罰金でかたづくことですよ。十五年の懲役だなどというのは謀殺も謀殺、よほどたちの悪い人殺しでもやらないかぎり食う刑ではありませんがねえ」 「もちろん、わたくしは、人を殺そうなどということは夢にも考えておりません。ただ、そんな話を聞いてからというものは、こういうことが心配になっておりました。つまり、わたくしの身辺に何か殺人が起こって、すべての条件から、わたくしが犯人だと考えられるようなことがあったら、どうなるかということなんです」 「…………」  英策はちょっと黙りこんだ。たしかに、女の表情というものは、場合場合に応じて、千変万化するものだが、この時の由美子の表情には、たしかに蛇を思わせる冷たい感じがあったのだ。 「殺人が行なわれるとなると、当然、被害者なり犯人なりが予想されるわけですが、いったい奥さんが誰を殺すとおっしゃるのです?」 「その予言者の話では、主人を殺すというのです。たしかに、もしも、いまここで、主人が誰かに殺されたとしたなら、嫌疑《けんぎ》は当然、わたくしにかかってまいりましょう。子供もなく、年は親子のように違いますし、それに莫大《ばくだい》な財産が、わたくしのものとなりますもの」 「奥さんほどおきれいなお方が、親子ほど、年の違うお方と結婚なさるとは、いかにも不自然な話ですが——それには、何か特殊な事情がおありだったのですか?」 「これが一むかし前だったら、人身御供《ひとみごくう》だとか政略結婚だとかさわがれましたでしょうね。ただ、わたくしの人生観を申し上げますなら——こんなことを申しあげてもよろしいでしょうか?」 「何でもどうぞ」 「友達は、わたくしのことを太陽夫人と申しています。ドライ・マダムと仮名《かな》をふるのですが、そういう人達は、結局わたくしのいまの生活がうらやましくってたまらないのでしょう。そういう嫉妬《しつと》の感情が、ついそのような悪口となって出るのでしょう。何でも、すべてを理屈で割り切り、算盤《そろばん》の玉ではじき出せないことは信じないというのが、現代人の特徴だとすれば、わたくしのしたことも、それほどとがめられることではないでしょう」 「それでは、お金のために、御結婚なさったというのですね?」 「はっきり申せばそうなります。戦争中から戦後にかけて十年ばかり、わたくしどもは本当に生血を絞られるような生活を続けてまいりました。それは、戦争に負けて、日本人は一人のこらず、血の出るような思いを続けて来たことですから、わたくしどもが、特に苦しんだということは申せませんけれども、両親に死にわかれてから、大勢の弟や妹を食べさせ、一人前にしてやる苦労というものは、女一人の手にはあまりました。だから、わたくしが人一倍お金というものに執着を持ったとしても、それは第二の天性とでもいったようなものなのかも知れません。外国ではよくお金持の年寄りが、子供のように年のわかい女と結婚することがあるといいますわね。女の方は、もちろん遺産というものを目的にしているのでしょうし、男の方は、それで自分が若返ろうとしているのでしょう。結婚だって詮《せん》じつめれば、男と女の取引のようなものですし、おたがいに利のあうように行動するのも、あたりまえのことではないでしょうか」 「理論としては、奥さんのおっしゃることに同意いたします。私個人としては信奉出来ない人生観ですが、人にはそれぞれ違った生き方、考え方があるものですし、こちらの信念信条を人に押し売りはいたしません」  英策は笑いもしなかった。たとえ世間の人々がどのように彼女を非難したとしても、女ながら、これだけ徹底した人生観を持っているというのは、一応敬意に値することだと思ったのだ。 「それでは、とにかくおひきうけいたしますが、御主人のお名前をうかがいましょうか」 「石垣|正二郎《しようじろう》——東洋化学の専務をしております」 「財産は?」 「さあ、会社の株だけでも増資増資で一億近くございましょう。それに、田舎《いなか》には山林や何かもございますし、方々に土地もただ同様に買ったのがございますし、わたくしには、どれだけあるのか見当がつきません」  由美子の顔には、かすかな誇りの色があった。それは、自分の内心の淋《さび》しさを強《し》いてかくそうとする虚勢のようにも思われた。 「それで奥さん、あなたのお年は? それから御主人のお年は?」 「わたくしは三十、主人は六十三でございます。先生が半未亡人とおっしゃったのも、もっともですわ」  英策は静かに立ち上がって、机の上のベルをおした。 「それでは、すぐに調査を始めます。報告はお電話をした上で、あらためてお目にかかってからにいたしましょう」  由美子がかるく会釈をして出て行くと、英策はすぐに隣りの部屋の扉を開けた。  新妻の竜子は、耳からレシーバーをはずしてにっこり笑った。  最近までは、女だてらに私立探偵を開業していて、川島竜子といえば相当に名前も売っていたのだが、三つ子の魂何とやらで、結婚しても、仕事の足を洗って家庭へ入るどころか、英策を助けて八面|六臂《ろつぴ》の活躍を続けている。いまの二人の話を聞いて、自分でも何かの勘を働かしたのか、 「これはちょっと面白い事件になりそうね」 「うん、お前はこの事件をどう思う?」 「その予言者は、どういう男かわからないけれど、予言の方はまるっきり出たらめだとばかりはいえないわね。あの奥さんが貞節そのものならいいけれど、もしも誰か、旦那さんのほかに恋人を持っていたとしたら……その恋人が、何かをねらって、旦那さんを殺したとしたら、単独犯行ということを裁判官は納得《なつとく》しないわ。その恋愛関係が証明されたとしたら、殺人の方も共犯ということになって、男の方は死刑、女の方は十五年ぐらいは考えられないことでもないわ」 「おれも、そのことを心配していたのさ——ただ、私立探偵という職業のプライドにかけて、あなたは旦那さんのほかに、恋人をお持ちですかとはたずねられないよ。それは、こちらが調査すべきことだ」 「それで、この事件はどうするの」 「大前田の家憲として、男が一旦《いつたん》ひきうけたことは、たとえ雷が落ちても、剣《つるぎ》の林をくぐっても、後へはひくなという教えがある——祖先の英五郎の教訓だが」 「わたしもママになったなら、そのことは、子供に拳々服膺《けんけんふくよう》させるわね。それで、仕事の手順の方は?」 「お前には、その予言者の方をまかせるよ。どうせ、山師みたいな男だろうから、お前みたいな女がいったら、眼尻《めじり》を下げて、正体を暴露《ばくろ》するだろうと睨《にら》んだ」 「あなたは?」 「おれは、少しあの奥方の素行を調べてくる。やくんじゃないぜ」 「馬鹿!」  竜子は真白な歯並を見せて微笑した。     三  竜子はすぐに支度をすると、その予言者、水口宇宙夫のところへ飛んで行った。  その日は旅行に出ているといってことわられてしまったが、根気よく通いつめていると、やっと三日目にあうことが出来た。  誰《だれ》かの紹介がないと断わられるかと思ったが、そこは案ずるより生むが易く、大きな白木の神棚が三つならべて飾ってある客間兼鑑定室へ通された。  主人の水口宇宙夫というのは五十前後、むかしの武芸者のように総髪を後ろになでつけた男だった。人間動物学の見地からすれば、まるで狐《きつね》が着物を着ているような感じだったが、もちろん竜子はそんなことをおくびにもあらわしはしない。 「先生の占いは、神様のようにたしかだということを、ほかから聞いてまいったのですが、見ていただけましょうか?」  竜子は、いかにも憂いに沈んでいるようなあわれっぽい声を出した。 「あなたが女でなかったらおことわりするところでしたが」 「といいますと」 「玄関のベルが鳴ったとき、私は男か女かを心で見やぶるのですよ。つまり勝負は、お客が玄関先に立った一瞬の間にきまってしまうわけですね。それがはずれるようだったら、もう予言者としては落第です」  長い両手の指を組みあわせながら、 「どんなことをおたずねになるのです」 「何でも、わたしの一生の運命についておわかりになることを。人相ですか? 手相ですか? それとも筮竹《ぜいちく》をお使いになるんですか」 「そういうものにたよるものは、まだ修業が至らぬ証拠です。本当の予言者というものは、たとえ千里のむこうに離れていても、相手の運命を見やぶれねばならないものなのですよ」  彼は眼をとじ、静かに気息をこらしていたが、 「最近結婚しましたね? それも再婚」 「ええ……」 「最初の結婚から後は、ずいぶん危い仕事にたずさわっていましたね。世間からは、女だてらに——と悪口をいわれるような仕事でしたな」 「それもたしかにその通りです」  竜子はちょっと気持が悪くなって来た。 「あなたのいまの御主人は、竹を割ったようにさっぱりしたお方だ。侠気《きようき》があって、何か人にたのまれると、後にはひけないが、それがともするとやりすぎになって、自分でも火中の栗《くり》を拾わなければならないような目も見ます」 「それから?」 「三十前後の年より若く見える女の顔がうつりますね。大変な美人に違いないが、まるで蛇のようにねじれた邪悪な心を持った女です。その女と御主人は、いずれ間違いを起こすでしょう。そのおかげで御主人はまきぞえをくわされて、とんでもない目にあいそうですね。まあ、君子危うきに近よらずで、あなたがうまくリードして、その女とは一日も早く、手を切るようになさるのが無難ですなあ」 「でも、仕事の上のおつきあいとしたら……それを妙にとめたりなどしたら、やきもちをやいているとは思われないでしょうか?」  気丈なようでも、やっぱり女のことだけに、竜子は最初の目的もどこへやら、真剣になってたずねた。 「それは仕方のないことでしょう。私にいわせるならば、男女の過ちというものは、得てして、仕事の上とか何とかいう口実から起こりやすいものです。火事が起こりそうならば、まず火の用心につとめるのが、人間として当然のことでしょう。それと同様、御主人が女と過ちをおかすというのは、あなたの方にも油断があるから……これだけいって、まだお分りにならないとすれば、それはあなたが悪いのだ。もう、これ以上お話ししてもしかたがないから、お帰り下さい」  相手は完全に機嫌を損じてしまったらしく、それ以上は一言も答えなかった。竜子はなおもしつっこく食い下がって見たのだが、結局その努力も水泡《すいほう》に帰した。  事務所へ帰ると、助手にまかせた調査の報告が出来ていた。どうも自分の印象とは相容《あいい》れなかったが、とにかくそれを持って家へ帰ると、十時すぎに帰宅した英策をつかまえて一応事務的なことから報告した。 「この経歴からいうと、山師の部類に近いわね。東邦《とうほう》大学の文学部|支那《しな》文学科を卒業して、ずっと大陸に渡っていたようね。終戦と同時に帰国して、それからしばらくのことは分らないけれど、四、五年前までは兜町《かぶとちよう》の橋のたもとで、株の上がり下がりを予想する罫線《けいせん》屋というやつをやっていたらしいの。そのうちに誰かパトロンでも見つけたのか、それとも自分で自分の占った株でも暴騰したためか知れないけれども、とにかく一戸をかまえるまでになったのだから、占いとしては大変な出世ね」 「あの奥方の御乱行の相手もわかったよ。外村数男《とのむらかずお》という医者の卵——学校へ行っている弟の友達らしいな。医者という商売は、若くてもその道にかけては、ベテランばかりそろっているようだから、旦那で満たされないセックスのはけ口をそっちに見出だしているのかも知れないが、こういうことになって来ると、何とも危険な火遊びだ」  英策は心配そうな顔をして、 「それで彼にはあったのか? お前の第一印象では、予言者の能力に関するかぎり、信用出来そうな相手かい?」 「人間動物学からいえば、着物を着ている狐なのよ。でも狐というやつは、年功を積んで来ると、いろいろ妙な神通力を身につけるらしいから、人格下劣、品行|淫乱《いんらん》だったとしても、予言の能力だけは信用出来るかも知れないわ。わたしに関することだけは、まあまあ当たったといえるし、突っこもうと思ったら、こっちの目的を見やぶったように、むっとしてしまって口もきかないのよ」 「うむ、三日も余裕があったことだし、何か準備でもしていたのかな?」  英策は苦い顔をして黙りこんでしまったが、竜子は彼の膝《ひざ》にしなだれかからんばかりに、 「ねえ、あなた、今度の事件はいい加減なところで切り上げて」 「どうしてそんなことをいう。一旦、手がけた事件は、底の底まで掘り下げて見ないとおさまらないのがおれの気性だ」 「あなたの気性は知っているわ。でも、あの狐野郎にいわせると、このまま行ったら、あなたは必ず彼女と間違いをおこして、とんでもないことになるというのよ。わたくしを口説き落とすくらいだからあなたの男性的魅力は相当以上だし、むこうは飢えて食を選ばずだし、たちまち猫に鰹節《かつおぶし》、油に火ということになりかねないわ。あなたが殺人の共犯者ということにでもなって、わたしが半未亡人になるなんて、まっぴら御免よ」 「つまらないことをいう野郎だ。三千世界に星の数ほど女はあっても……」  といいかけたとき、机の上の電話器のベルが、何かの凶報を告げるように、けたたましく鳴りはじめた。 「はい、はい、こちらは大前田です……石垣さん? 何か変わったことが?」  英策の顔色はとたんに変わってしまった。 「それは……そんなことが? これからすぐにかけつけます。警視庁がやって来るまでは、ちょっと時間がかかるはずだから、こっちが先に着けるでしょう。くれぐれも、かるはずみな行動をしないように——現場を離れてはいけませんよ。はい、いますぐに」  受話器をかけ終えた英策は、とたんに溜息《ためいき》をついた。 「例の——ドライ・マダムの御亭主が変死した」 「殺人?」 「そうじゃないかと思うな。家でばったり、発作を起こして倒れたそうだが、かけつけて来た医者が首をひねっているようだから——毒殺の疑いが濃厚なんだろう」 「毒殺?」 「十中八、九まではそうだろう。その毒が何に入っていたか、どういう風にして飲まされたか、それが分らないことには、たしかに彼女も十五年だ」  英策はすっくと仁王《におう》立ちに立ち上がって、 「ここまで来れば、たとえ警視庁全部をむこうにまわしても勝負しなくっちゃならないだろう。ルノーを」  竜子の運転するルノーで、二人は息つぐひまもなく石垣家へかけつけた。     四  石垣家は、颱風《たいふう》の眼のように、ぶきみな静けさに包まれていた。警視庁から捜査一課と鑑識課の係員が出動して来る寸前の殺気をはらんだ場面だった。  石垣正二郎の倒れたのは、寝室にならんでいる洋風の居間だった。もう床につくつもりだったらしく、パジャマに着かえていたが、口もとから、かすかにただよう臭気から、青酸系の毒物による中毒だということはすぐにわかった。  英策は真青になって、後ろに立っている由美子をふりかえると、 「奥さん、こういう際ですから、歯に衣《きぬ》着せずにおたずねします。死因はたしかに青酸中毒だと思いますが、毒が何に入っていたか、お心あたりはありませんか?」  由美子は、完全な放心状態におちいっているように、 「十五年というのは、とうとう本当になったかも知れませんわね」  とつぶやいた。 「未来の十五年よりも、現在の十五分が大事ですよ。青酸化合物というものは、大変な悪臭がするものだから、気がつかないというのはどうかしているんです。何か、味もためさず飲みこむものでお心あたりはありませんか?」 「あれ……蛇の油でしょうか?」 「蛇の油?」 「そうです。主人は強精剤として、錦蛇《にしきへび》の脂《あぶら》に、人蔘《にんじん》エキスを入れたものを常用していました。赤い小さなカプセルに入ったお薬ですけれど、それに毒でも入っていたのでしょうか?」 「カプセル? それなら、注射針で中に青酸カリの溶液を注ぎこむことも出来ないわけはありませんね。あれだったら胃の中で溶解するまでに十分以上かかるから。その薬はどこにありますか?」 「寝室においてあるはずです。持って参りましょうか?」 「下手に手をつけない方がいいでしょう。もちろん、指紋を残すような犯人ではないかも知れないけど、奥さんの指紋が残っていた日には、いよいよ嫌疑が強くなる」  英策は、ぐるぐると部屋の中を歩きまわりながら、 「その薬は、薬局で売っているものではないでしょう。どういう経路で手に入れるのですか?」 「製造元から直接送らせるのです。どなたから聞いたのか知れませんけれど、これを使い出してからとても調子がよいといって喜んでおりましたわ」 「それだとしたら、毒を入れたのは、この家の中の誰かだということになりますね。御家族は?」 「主人とわたくしと、女中が二人と、運転手と——わたくしの実家の者は、近くに家を建てて、そちらに住んでいますが」 「御主人の一番近い御親類は? もしも、奥さんが犯人だということになって、財産継承の権利を失われたような場合には、御主人の遺産は誰に渡るんです?」 「大阪にいる、主人の弟——賢三郎《けんざぶろう》という人ですが、そちらに全部行きますでしょう。大変な道楽者で、主人も愛想はつかしているんですけれど、そこはやっぱり肉親の兄弟ですから、見殺しにも出来ませんし、もうこれでおしまいだよといいながら、しょっちゅう、借金の尻ぬぐいをしてやっていたようです」 「そのお方は最近東京へ——この家へやって来たことはありませんか?」 「いいえ、半年ばかりというもの、全然顔を見せません」 「そのお薬の分量は? どのくらいもつものなのです?」 「一箱にたしか三十、毎日二粒ずつ飲みますから、月に二箱ずつ送らせますの」  英策はぴりりと眉をひそめた。たしかに事態は思ったよりも、ずっと由美子には不利だった。 「それで、例の予言者におあいになったのはいつごろなんです? いったい、誰の紹介で」 「先生のところへ上がる四日ほど前のことです。弟の友達の外村数男さんというお医者の紹介で」  英策と竜子は、とたんに顔を見あわせた。 「その外村さんというお方は、このお宅へ見えたことはあるのですか?」 「はい、五日ほど前に、主人が仙台へ出張して留守をした時に、弟といっしょにたずねて来ましたわ。泊って行ったのは弟が一人ですけれど」  英策は、額の汗をふきながら、 「その時、彼がそのお薬を細工したということは考えられませんか?」  由美子はうたれたようによろめいた。倒れようとする体を、壁にささえるようにして、 「先生」 「たのまれたことは、もちろん予言者の方の調査でしたが、何しろお話がお話ですから、念を入れて、奥さんの方の調査も進めたのです。一介の私立探偵にすぎない私たちが、こんな短い時間で探り出した関係を、ベテランぞろいの警視庁が、殺人事件にからんで捜査を始めたら、発見しないですむということは考えられますまいね」  由美子の全身には、明らかに眼に見える戦慄《せんりつ》が襲っていた。 「まあ、過ぎたことは今更しかたがないけれども、奥さんも危険な火遊びをなさったものですね。警察が来たなら、思いきって、一切を告白なさった方がいいかも知れません。男の方は助からなくても、奥さんの方は、心証がよくなれば、いくらか罪もかるくなるかも知れません」  この言葉が由美子の耳に入ったかどうかはわからなかった。大きな眼からは、ぽたりと涙の滴《しずく》がたれて頬《ほお》を濡《ぬ》らした。 「あの人が……どうして?」  とつぶやいたとき、玄関の方から騒々しい物音が起こり、次第に近く迫って来た。 「大前田さん、御夫婦で。これはまたお早々のお越しだなあ」  ある意味では友人、ある意味では宿命のライバルともいえる捜査一課の松隈警部補は、扉を開いて三人の顔を見つめ、かるい皮肉をこめてつぶやいた。     五  それから、英策と竜子は一室に遠ざけられて、一応捜査が終了するのを待っていた。  今度の事件に関するかぎりは、英策の頭脳を以てしても、常識的な解決以外の線は出て来なかった。それかといって、このまま由美子を見すてて帰っても行けないところに、英策の人間的な苦悩があった。  二、三時間してから、松隈警部補は勝ち誇ったような微笑を浮かべて部屋に入って来た。 「犯人は自白してしまったよ。被害者が持薬に使っている強精剤、媚薬《びやく》のカプセルに青酸カリの溶液を注入して飲ませたというのだね。毒物の入手経路はいわないが、捜査はこれで第一巻の終わりだよ」 「犯人というと、誰だ?」 「いうまでもない。細君の由美子だ。生まれはいいのだが、貧乏生活の辛《つら》さが骨身にしみているのだな。別れ話を持ち出されて、ついかっとなってやってしまったらしい」  英策はぎくりとしてしまった。  由美子は明らかに、自分の一身を犠牲にして、恋人の外村数男をかばいきろうとしているのだろう。女でなければ考えられない、本能的な絶望的な献身的行動だが、ドライ・マダムと自称するような由美子が、こういうことをやり出そうとは英策も予想していなかった。たしかに女心というものは、一言や二言ではきわめつくせない、複雑微妙な性格を持っている……。 「そんなに彼女は、男を愛していたのかね」  ひとりごとのようにつぶやいた英策の言葉を、警部補は鋭く聞きとがめて、 「それはいったいどういう意味だ? あんまり捜査が順調に進みすぎたので、あんたの話を聞いている暇もなかったが、どうしてこんな場所へ来ていたんだい?」  とたずねて来た。 「しかたがない。今度は敗軍の将、兵を語って全部のカードをさらしてお目にかけよう」  英策の語り続けた事件のいきさつを、警部補はうんうんとうなずきながら聞いていたが、 「ありがとう。おかげで背後関係の調査はずっと楽になったよ。そういう男がいたとしたら、毒物も入手する道があったわけだね。ひょっとしたら、あんたのいうように、男の犯行をかばうために自分で罪を背負って出たのかも知れないが……」 「違う」 「どこが違うというんだい?」 「どこということはいえないよ。ただ、それでは事件はあんまり常識的すぎる。彼女の性格は、こっちがいやになるほど算盤高かった。親子ほど年が違う男と結婚したのも、いずれは自分の手に入る莫大な遺産をあてにしてのことだろうが、これから何年か、生活の心配も何もなく、一方では火遊びを楽しみながら黙って待っていれば当然手に入る金を、そういう一か八《ばち》かの賭《か》けをしてまで、急いで手に入れる必要があるのだろうか?」 「男の方を調べて見なければ、それは何ともいえないが……」 「それから一方、あやしいのはその予言者のいった言葉だ。どうして彼は今日あるを予想出来たのだ? 彼女の今度の行動まで読みきっているようなことをどうしていい出したのだ?」 「その予言者の方は、こちらでも調べては見るけれども、本人がこの家へやって来た形跡がないとすれば、殺人そのものと直接に結びつけることは到底不可能だろうな。どうも予言とか霊感とかで逃げられては、追求の余地はないからな」 「そういわれればそれまでだが、僕にはもっと、彼を追求する余地はあると思うよ。その蛇油強精剤なるものの製造所を教えてくれないか」  警部はちょっと眼を見はっていたが、やがて部屋を出ると、まだ封を切っていない小さな赤い箱を持って来て英策の前においた。 「ビタミンB11、竜脳《りゆうのう》、麝香《じやこう》、いかり草エキス、人蔘エキス、蛇油——ずいぶんいろいろと媚薬の類を集めたものだな。適応症は、疲労回復、強壮、体力増進、神経衰弱、ヒステリー、腺病《せんびよう》性体質、四肢冷寒——まるで万能薬みたいだな」  箱の裏に書いてある文句を小声で読みあげながら、英策は製造元の名前と住所をノートに写しとっていた。 「公定書外医薬品——というと、一般の薬屋では売っていないというわけだね?」 「特殊な薬屋は知らないが、まず一般の薬局では販売していないだろうな。あんたが何か考えているなら、こっちでも調べさせるが」 「そうだな。それをたのめれば、こっちも手間が省けるから、一つ発売元の方から直送する名簿の中に、誰か注意すべき人物の名前が見つかったら教えてもらおうか」  英策はべつに我意を張ろうともしなかった。そのまま二人は、由美子にもあわずに、帰途についたが、その途中で、竜子はルノーを運転しながらささやいて来た。 「ねえ、あなた、今度の事件はもうこの辺で切りあげたらどうかしら? 彼女が犯人かどうかはべつとして、運の悪い女だということだけはたしかよ。そういう運の悪い人間とつきあっていた日には、こっちまで悪運を背負いこむわよ」 「おれも最初はそうするつもりだったよ。運不運の問題は別として、彼女の性格、行動には虫の好かないものがあったんだ。しかし、今の気持はちょっと違うな。彼女にそれだけ、恋のために殉ずる熱情があろうとは思わなかったよ。その熱情におれは大いに惚《ほ》れこんだ。無駄になるかは知れないが、もう一骨折って見ようと思う」 「相変わらずの感激オンチね。熱情に惚れこむのはかまわないけれど彼女自身には惚れないでよ。ところで、これからどんな手を打つの?」 「犯人が、このカプセルに毒を入れるチャンスがあったのは、最大限二週間以内だ。その間の被害者の行動をとことんまで調べあげるのが、まず第一の手段だよ」 「それから?」 「第二には、あの予言者のつるしあげだ。どうも、狐というやつは、名前を聞いただけでも虫が好かない。きっと何か大きな秘密を持っているに違いないんだが、おれが直々《じきじき》出馬して、今度こそ、そのインチキを見やぶってやる」  英策は唇を噛んで黙りこんでしまった。     六  それから二日ほどして、英策は何かの自信をとりもどしたらしい。新聞ではまず由美子夫人の逮捕、ひきつづいて外村数男の逮捕を報じていたが、そういうことは、彼の信念を動かすには足りなかったのだ。  彼は烈々たる闘志をみなぎらせて、水口宇宙夫の家を訪ねて行った。  もちろん、本名は名のらなかったが、相手はすぐにその本性を見やぶったのか開口一番、 「あなたは堅気かも知れないけれど、あなたの御先祖には、誰かやくざの道で相当に名前を売った方がおられるようですね」  といい出した。 「さあ、むかしのことは聞いていないけれども、そういうこともあったかも知れませんねえ」  英策はたくみに空とぼけたが、相手の追求は急だった。 「そういう血をうけついでいるせいでしょうな。あなたは向う見ずで一本調子だ。何かに義憤を感じると、たとえ火の中水の中でも飛びこもうという性格が、それも度を過ごしては思わぬ災難をまねきましょうな。お仕事は?」 「実のところは私立探偵、大前田英策」 「ああ、あの有名な探偵さん」  相手はにやりと笑っていた。自分自身の霊感の的中ぶりに、陶酔しきっているような表情だった。 「それほどの御眼力をお持ちなら、私がこうしてお訪ねした理由もお分りでしょうな」 「石垣夫人のことでしょう? あの人は、結局私の予言通りに、身を滅ぼしてしまいましたが、あなたは彼女に惚れこんだのですか? およしなさい。彼女は魔女です。蛇のような魂を持った女です。下手にこれ以上、あなたがかかずらう必要はないじゃありませんか」 「そこが持ち前の酔狂さでしょう」 「全く——人間動物学の見地からいえば、あなたは猪《いのしし》の霊にとりつかれておいでだ。これが虎《とら》なら千里を行って千里を帰るところだが、猪というのは千里を行ったら行ったきりで、あまり、その性格にまかせて突っ走っていると、九郎判官義経《くろうはんがんよしつね》のように、みじめな最期をとげますぞ」 「日本の歴史の中でも不世出《ふせいしゆつ》な英雄にたとえていただくとは実に光栄至極ですな。非業《ひごう》の最期とおっしゃるけれど、義経は衣川《ころもがわ》から大陸へ渡ってジンギスカンとなったという説さえあるくらいで——それを向う見ずといわれるからにはあなたは梶原景時逆櫓《かじわらかげときさかろ》の構え、狐の生まれかわりですかな」 「無礼者、帰れ!」  ほかの者ならとび上がりそうな大喝《だいかつ》だったが、英策は持前の不敵な笑いを爆発させて、 「これが犬の喧嘩《けんか》なら、大声で吠《ほ》える方がたいてい負けなんだが、さてはどこかにやましいところがあると見えるな」 「何だと!」 「何でも、蛇油の直送者名簿には、そっちの名前ものっているようだが、それと石垣正二郎氏が殺されたということとは偶然ではなさそうだな」 「それか……そんなことなら何でもない。警視庁からやって来た刑事にも、ちゃんと説明しておいたが、何しろ若い奥さんを満足させるには、普通の方法では行かないし、その方で疲れきっているようだから、一度この薬をすすめて上げたことがあるのだ。それからはずっと調子もよかったようだが、何もこっちが取次をしているわけではなし、あのカプセルの中へ毒を入れるような細工は出来るはずがない」 「なるほどな。その言訳は御もっとも——これが普通の人間なら、尻尾《しつぽ》をまいてひき下がるだろうが、そこが猪の浅ましさだ。それではいったい何のため、東都《とうと》秘密調査所などにたのんで、由美子さんの動静を探らせたんだ?」 「東都秘密調査所?」 「そうだ。職業上の秘密は絶対厳守が原則だが、何しろ事件が重大だし、こっちが両手をついてたのんだものだから、所長も気の毒に思ったんだろう。貴様の依頼で、あの奥さんの身辺を見はっていたことを知らせてくれたんだ。うちの女房がやって来たときも、つぼにはまったことをいって、煙にまいたらしいが、彼女がおれの事務所へ訪ねて来たという報告をうけとってから、おれか女房のやって来るのは予想していたんだろう。いや、もうとんだ神通力だ」  英策は、とたんに相手の腕をとり、ぐっと力をこめてねじあげた。 「何を……何をするんだ! 痛い! 骨が折れる!」 「おれだって、何も手荒なまねはしたくない。だが、今度という今度だけは、堪忍《かんにん》袋の緒が切れた。いったい誰にたのまれて、あの人の動静を探らせたんだ? 易者としちゃあ出すぎたまねだが返事をしねえか? 返事しやがれ!」     七  それから一時間もたたないうちに、英策は石垣家を訪ねて行った。とりこみ中でごたごたしておりますからと、女中にことわられても、不撓《ふとう》不屈のねばりを発揮して、喪主の賢三郎に面会を強要した。  応接室に通されて、三十分ほど待っていると、相手は不機嫌そうな顔をして出て来た。 「大前田英策さんですね? 何しろ、こういう状態で、ごたごたしておりますから、お待たせして申しわけありませんでしたが、御用件はいったい何でしょう?」 「この度は、お兄様がなくなられて御愁傷様でした。その犯人がわかったので、おしらせに上がりました」 「犯人が? それなら何も、あなたにおいで願わなくても、とっくに警視庁に捕《つか》まっているじゃありませんか?」  賢三郎の顔には、どす黒い疑惑の影がただよい始めた。 「ところが、奥さんもあのお医者の卵も真犯人ではないのですよ。犯人の仕掛けた罠《わな》に引っ掛かった憐《あわ》れむべき犠牲者なんです」 「それでも不義を犯したことは、本人同士が認めているのでしょう。あの女の身持がおさまらないことは、私も人から聞いて知っていました。だから、思いきって離婚するようにと、すすめたこともあるのですが」  英策は、相手の言葉など、どこ吹く風かというような顔で、 「私は今日、水口宇宙夫という大山師にあって来ましたよ。あなたのお兄さんからは、相当以上に世話になっているのに、恩を仇《あだ》で返したとんでもない狐《きつね》野郎のようですなあ」 「…………」 「何でも、お兄さんが仙台へ旅行なすって、針屋《はりや》という宿へ泊ったときには、誰か訪ねて来た男があったようですな。あの予言者かも知れないけれど——とにかく、あの薬はお兄さんも、たえず肌身をはなさずに持ち歩いている持薬だから、当然トランクの中にも入っていたでしょうな。便所へでも行った拍子に、前から準備しておいた青酸カリ入りの特製品にすりかえるということは、それほど難しいことではない。その毒が、どこでどういう効力を発生しようが、真犯人よりずっと濃厚な嫌疑《けんぎ》をかけられる人間が二人もいれば、真犯人はかげにかくれて、のほほんとしておられる」 「分りました……あなたのおっしゃることは」  賢三郎は大様《おおよう》にうなずいて、 「私がお願いしたわけではないけれども、そこまで骨を折っていただいたことだから、お礼をしなければなりませんね。調査料はいったい幾らお望みです。御希望の金額をおっしゃって下さい」  英策は、皮肉な微笑を唇のはしにたたえ、 「あの狐は、つまらない男ですけれど、一つだけいいことをしましたね。人間の霊魂は動物に宿ることもあり、また動物の霊魂が人間に宿ることもあると。いま、あなたの椅子《いす》にはい上がっている蛇は、いったい誰の霊魂が動物化したものでしょうか?」  賢三郎は、あっと叫んでとび上がった。たしかに、椅子の脚から腕木へはい上がっていた二尺ぐらいの長さの蛇が、その時急に鎌首《かまくび》を持ち上げ、彼の腕にからみついたのだ。 「助けて! 助けて、助けてくれ!」  気が狂ったように彼は声をあげ、部屋中を追われるようにかけまわった。 「おれだ! おれだ! おれがやったんだ。お願いだから、この蛇を——蛇を、殺してしまってくれ!」 「やれやれ、これでおれもどうにか重荷はおろしたよ」  その晩、さすがにほっとしたように、英策は竜子に向かっていい出した。 「蛇を鞄《かばん》に入れて歩くのは、あんまりいい気持じゃなかったけれど、やっぱり被害者の魂魄《こんぱく》がのりうつっていたのかも知れないな。テーブルの下で離してやっても、こっちには来ないで、一直線に向うへからみついていったからな」 「あなたのやることはいつでも大時代ね」 「そうでもしなければ、この際何のきめ手もなかったじゃないか? 被害者が仙台へ行って針屋という旅館に泊ったことは会社の方から調べ出したし、あの狐が誰かにたのまれて、私立探偵に被害者夫婦の行動を監視させていたことも分ったが、それ以上はどうにもならなかった。腕力を用いたことは、たしかに汗顔の至りだが、あの狐の方も、なかなかしぶといところがあって、骨が折れそうになっても泥を吐かなかったぜ。それ以上は、こっちが傷害罪に問われるから加減したんだが、もうああなればあたって砕けろ。一か八かの大はったりをして見たんだ。それでも旅先で被害者にあった男がいる、そいつが薬をすりかえたんだときめつけたら、むこうが買収工作に出て来たんでしめたと思ったのさ。あいつにして見れば、一旦こちらの口を封じることが出来たら、その後はどうにかなると思ったんだろうね。何日か余裕があれば、べつの殺人方法を考えて、こっちを殺しにかかったかも知れないが」 「それでは、あの二人はぐるだったのね。水口宇宙夫と石垣賢三郎とは」 「そうだとも。予言者のかけた暗示を、いや計画までたててやったか知れないが、それを賢三郎の方が見事にやってのけたのだな。東京の家へ訪ねて来たんではまずいから、旅先で偶然おちあったような恰好《かつこう》をよそおって、毒殺の準備工作をしておき、後は大阪へ舞いもどって涼しい顔をしていたんだね。予言者の方は直接利益を得るわけでもないが、こうなれば金鉱にぶつかったのも同様だ。太く長く、いつまでも絞りとるつもりだったに違いない。もっとも、悪党同士のつきあいというものは、そんなに長く続かないのが原則だし、予言者のおのが身知らずということもあるから、遅かれ早かれ、賢三郎の手にかかって殺されるようになったかも知れないがねえ」  英策は、豪放に笑ったが、竜子は心配そうな顔で、 「あなた、これでもう今度の事件は終わったのね?」 「どうしてそんなことを聞く?」 「でも、彼女は留置場から出たら、必ずお礼に来るでしょう。いわば命の恩人だし、今度は完全な未亡人だし……」 「やくんじゃないよ。彼女はたとえば、読み終わった本だ」  大前田英策はにこりと笑った。   女を探せ     一 「先生、今度の依頼者も変わっていますわ。東京八百万の住民の中から——もっともその中で女の数は半分として、四百万になるでしょうけれども、その中から、たった一人の女を探し出せないか——という依頼だそうです」  秘書の池内佳子《いけうちよしこ》にこういわれて、英策は煙草《たばこ》に火をつけながら笑った。 「これはこれは、まるで宝くじで百万円あてるような確率だな。名前も、人相も、特徴もわかってはいないのかね?」 「顔は、本人が見ればわかるそうですが、写真も何もないそうです。名前は、川村京子《かわむらきようこ》と名乗っていますが、本名かどうかもわからないそうです。もちろん、現在の住所もわからないそうですけれど」 「その依頼者を通してくれたまえ、僕はそういう変わった事件があると、絶対見逃しは出来ないのだ」  池内佳子はうなずいて部屋を出ると、すぐに依頼者を案内した。 「三欧合金《さんおうごうきん》株式会社総務課 藤間章男《ふじまあきお》」という名刺を差し出して、この相手は、テーブルのむこうの椅子《いす》に腰をおろした。  まだ、見たところ三十に満たない青年だが、何かを一筋に思いつめている者だけが持つ、一種の鬼気が全身にみなぎり溢《あふ》れているようだった。 「先生、お願いしたい調査の要点はむこうでもお話ししましたが、お引受け願えますでしょうか?」 「難問中の難問ですな」  大前田英策も、ゆっくりと重い調子で、 「あなたは、その女の名前も、住所も、人相も、ほかに何の特徴も説明できないとおっしゃったようですね。それは本当ですか?」 「本当です」 「ただ、それだけの手掛かりでは、たとえ警視庁の全能力をあげたとしても、発見はとうてい不可能でしょうな。これが殺人などにからんでいる容疑者だとなれば、それこそ知っている人間を全部動員して、モンタージュ写真などを作って、全国に指名手配でもするでしょうが、一介の私立探偵に過ぎない私としては、とうてい不可能な仕事ですね」 「そうでしょうか? いや、これを警察へ持ち出したら、一笑に付されてしまうだろうということは、初めから私にもわかっています。官僚的なお役所仕事では、絶対にらちの明かない仕事です。そう思えばこそ、私も先生のところへお願いにあがったというわけですが」  相手の態度は真剣そのものだった。冗談やひやかしだとは思えなかった。  英策はぴくりと眉《まゆ》をひそめると、 「どうして、その女を探そうとおっしゃるのですか?」 「その女が、私の恋人を殺した犯人ではないかと、そういう気がするからです」 「殺人犯人?」  英策はぐっとデスクの上に身を乗り出して、 「そのお方——あなたの恋人というお方は、どういうお方だったのですか。いつ、どうして亡くなられたのですか?」 「名前は、杉浦栄子《すぎうらえいこ》といいました。目黒の柿《かき》の木坂《きざか》にある、百山荘《ももやまそう》というアパートに住んでいました。私との関係は半年ぐらい、もう間もなく結婚する予定でしたが、先月の二十日、熱海《あたみ》の錦《にしき》ガ浦《うら》から身を投げて死んでしまいました——投身自殺ということになっているのですが」 「遺書は? そして警察ではその事件をどう解釈したのですか?」 「書置はべつにありませんでした。あそこは自殺の名所だし、女の気持というやつは極端から極端へ、大きく飛躍するものですから、警察でも何か思いつめたあげく、あそこまで行って、死神にでも誘われたようにふらふらとなって飛び込んだのではないかと、常識的な、すこぶる常識的な解決を下したのですが、私はあくまでこれを殺人だと思っているのです」 「誰かが、いや、あなたのお説に従うと、その川村京子という名の女が、そのお方といっしょに錦ガ浦まで行って、そこから海へ突き落としたというのですね? ただ、問題は、どうしてこの女が杉浦さんと結びつくかということなのですが」 「彼女は、同じアパートの隣りの部屋に住んでいました。そして事件があってから二、三日あとで、あわててどこかへ越してしまったんです」 「それだけでは嫌疑《けんぎ》も大いに薄弱ですな。偶然、杉浦さんの死んだ日と、その女の引越しの日とが接近していたというだけの話なのじゃありませんか?」 「そういわれればそれまでです……世の中には、不思議な偶然の一致があるものですからね。ただ川村さんという人は恐《こわ》い人だと」 「どうして? 何が恐いというのですか?」  藤間章男は自嘲《じちよう》のように笑った。 「隣りの部屋へ、その前に外人の男が訪ねて来たのを彼女は目撃したらしいのですね。もちろん、これがただの外人だったとしたら、彼女もそれほど気には止めなかったでしょうが、これが有名な悪党だったとしたら、その相手をする女まで、恐ろしくなってきても仕方がないじゃありませんか」 「でも、どうして一目見ただけで、その男が悪党だということが見破れたのです」 「先生はシャロック・ジョンという男を御存知でしょう。一時日本の映画にも五、六本、外人エキストラとしてはよく現われた奴《やつ》じゃありませんか」 「シャロック・ジョン? あの男が?」 「これは申しあげるまでもありますまいが、彼はたしかに強盗事件か何かに連座して、裁判にかかっているはずですね。それを保釈中に逃げ出して、アメリカから日本の検察庁へ、からかうような手紙を寄こしたという話ですね。もちろん、保釈は取消される。アメリカへは、逮捕と身柄引渡しの交渉が始まったけれども、警視庁では、手紙も犯人のトリックだし、彼はまだ日本の国内に潜伏している——とにらんでいるそうじゃありませんか?」 「なるほど、前に映画で顔を知っていたために、一目で彼だと見破ったのだとすれば話はわかりますね。それで?」 「彼女がすぐ、警察へそのことを知らせれば、ああいう目には会わなかったでしょうに——そこが女心というものの不可解きわまるところですね。警察に追われて逃げ廻っている犯人、しかも外国人、その男をかばっている女というものが、大変な英雄のように思われたのかもしれませんが、その時は何もいわずに、後になってから、京子自身にふいとその話をしたんだそうです」 「それで?」 「むこうは真青になったそうです。図星を指されて、ぎくりと心にこたえたのでしょうか。あたりを見廻しながら、そっと声をひそめて、  ——このことはまだ誰にもいっていないんでしょうね。もし、一言でもしゃべったら、ただではおかないわよ。  と脅迫したそうです」 「どうして事件の直後に、そのことを警察へはお話しにならなかったのですか」  大前田英策は、両腕を組みながらたずねた。藤間章男は、二、三度大きく溜息《ためいき》をつきながら、 「ああいうことのあった後というものは、どんな人間でも動揺してしまうのでしょうね。私も、その例には洩《も》れませんでした。恋人に突然先立たれた、それも自殺——という打撃に打ちのめされて頭もどうかしていたのでしょうね。事件が起こって、火葬をすまし、遺骨を彼女の郷里まで持って行って埋葬するまでは、その話を思い出しもしなかったのです。私がそのことを思い出して、ハッとしたのは、東京へ帰って来て、アパートの隣りの部屋、川村京子の住居が、空になっているのを発見した瞬間でした」 「わかりました。あなたが、相手のその女の在りかたをつきとめたいと希望しておられるわけはどうやら、私にも呑《の》み込めたようです。ただ、商売気を抜きにして申しあげるなら、これは一応、警察へ届けた方がよい事件のように思われますが、そうなさってはいかがでしょうか?」  相手はちょっとためらっていた。 「それは、その方がかえって安上がりだし、早く結果がわかるかもしれませんが、ただ私はそれで満足できないのです。もちろん、復讐《ふくしゆう》ということは、現代の法律で許されることではありませんから、最後には、確実な証拠があがったならば、警察に相手を引渡して、断罪を待つ——ということにもなるでしょうけれど、私としては、この際自分ひとりの力で出来るだけのことをやっておかなければ、彼女の霊に申しわけのないような気がするのですよ。彼女の霊にも、そしてお腹の中にいた私の子供にも……先生は、ここまで思いつめた、私の気持がおわかりにはなりませんか?」     二  雲を掴《つか》むような尋ね人だと、最初は思っていたが、前に住んでいた住所もわかっていることだから、手掛かりは全然ないわけでもない。  もちろん、彼のこれだけの話では、川村京子が栄子を殺害した犯人だと決定出来るわけはなかった。ただ、彼女の背後に、逃走中の不良外人、シャロック・ジョンが潜んでいるかもしれないということは、英策の闘志を奇妙に刺戟《しげき》した。  彼女が自分の恋人を殺したという想像は、この依頼者の一種の被害|妄想《もうそう》かもしれないが、それはある程度調査がすすめば、はっきりして来ることなのだし、案外、シャロック・ジョンの方で副産物がありはしないかと思うと、英策もこの事件をこのままにしてはおけなかった。  もちろん、定石的な第一歩の調査は、この百山荘アパートであった。  彼は単身、このアパートを訪ねて行くと、持前の粘りと強引さに物をいわせて、何時間か喰いさがった。  しかし、前から予想はしていたことだったが、これという収穫はなかった。  川村京子という女には、きまった勤めはなかったらしい。男の出入りもほとんどなかった所を見ると、いわゆる二号という存在ではなかったろう。ただ、二日に一度ぐらいはかならず、夕方五時から七時までの間に電話がかかって来て、それから出かけては、外泊してくる習慣だったらしい。  電話は管理人室にあり、そこからベルで各部屋の当人を呼び出すのだから、管理人は当然この電話を最初にかけて来た男の声を聞いているはずだったが、それはほとんど例外なく、東北なまりのある男の声だったということである。  日本語のうまい外人の男ではなかったかという疑問も、たちまち一蹴《いつしゆう》されてしまった。 「それでは、彼女はいったい何をして、生計を立てておったのですか? その点に関して、あなたは疑問をお持ちになったことはないのですか? 管理人といえば、だいたいにおいて居住者の身上は、知らないでは勤まらないでしょうに」 「お話は確かにごもっともですね。どこかの美容院へ通って、その助手をしているという話でしたよ。何でも、美容師というのは、最近えらく難しくなって、美容学校を出て、国家試験を通ってから、一年はインターンをしなきゃ開業出来ないようですね。むかしは、たかが髪結い風情《ふぜい》と軽蔑《けいべつ》したものですが、これも時代の進歩ですかな」  といって、管理人はニヤリと笑った。 「むかしはパーマネントなどというものはなく、手先の技術一本だったでしょうからね。ところでどこの美容学校を出たお方か、それについて何か話をなさったことはありませんか?」 「別に……」 「それで、外泊の理由というのは?」  管理人は、野暮なことを聞くというように笑って、 「ここは女学校の寄宿舎じゃありませんからね。まあ毎晩変わった男でも引っ張り込んで、まるで青線のような営業でも始められたら、こちらはほかのお客の手前もあるから、何とか注意もするでしょうが、こちらから出かけて行くのでは、昨夜はどこへ行って来た、今晩はどこへお出かけですなどと、しつこく聞けるもんじゃありませんよ。そこは、見て見ないふりをしているのが、われわれのエチケットというものですな」 「なるほど。それで彼女の生活費はどこから出ていたのでしょうか? 書留でも送って来るようなところがありましたか」 「郷里はたしか静岡県だといっていましたが、別に手紙などはあんまり来なかったようですね。少なくとも、私がかわりに書留を預かったというようなことは一度もありませんでしたよ」  管理人の顔にはちゃんと、  ——この東京のような大都会では、男はともかく、若い女が自分の身を捨てるつもりなら、食ってゆくことぐらいはどうにか出来るはずなのに、つまらないことを聞くものだ。  と書いてあるようだった。 「それでは、きまった男というのは、いなかったわけなのですね。そちらから、月々の生活費が来ていたということはなかったわけですね?」 「それは一度や二度だったら、私たちの目を逃れて、一晩ぐらい泊っていくということもなかったわけではありますまい。しかし、きまった相手が、始終部屋へ出入りしていたら、いかにアパートというものは独立世帯の集合だといっても、必ず人目につくものですよ。そういう相手は、まずなかったと申しあげてもいいでしょうね」 「それでは、外人だったならば、その一度や二度の可能性もなかったというわけですか?」 「ない——絶対にないとまではいい切れますまいけれど、まず、そういうことはほとんど考えられないでしょうね。真夜中になってから、部屋へやって来て、また、朝早く、誰《だれ》も起きないうちに出かけるか。そうでもなければ、一日中部屋にずっと隠れていて、また翌晩、遅くなってから帰って行くか、そういう無理をしなかった日には、まず誰かの目についたと考えるしかありませんね」 「わかりました。もしも彼女に決まった恋人がいたならば、毎日温泉マークへ連れ込むよりは、この部屋へ通って来た方が経済的だというわけですね。相手が何か罪を犯して追われているような外人でもなかったなら」  この言葉の後半分は、口の中で噛《か》み潰《つぶ》してしまって、表には出さなかったが、英策はそれから管理人に、このアパートへ入った時の保証人の住所と氏名とを書いて貰《もら》ってここを出た。  もちろん、今度引越した時の運送屋のことは問い合わせたのだが、荷物は二|束《そく》三|文《もん》に近くの古道具屋へ売り飛ばして、ほとんど身一つで飛び出してしまったらしい。連絡先は静岡の田舎《いなか》ということになっているが、そちらへ回送してやった手紙が、受取人なしという符箋《ふせん》が付いて帰って来たところを見ると、これも出まかせの住所だったのに違いない。  たしかに、この失踪《しつそう》には、彼女自身の意志から発している何か秘密の意図がありそうだった。  英策はそれから、保証人になっていた世田谷赤堤町の今義之《こんよしゆき》という男の家を訪ねて行った。  ここでも主人は居合わせなかった。ヒステリー気味な細君が玄関へ出て来て無愛想に、 「川村さんが何かしたっておっしゃるんですの? あの人は、主人と同郷で、上京してアパートを借りる時、そのよしみで、保証人になってくれと頼まれたんですけど、それっきり、一度|挨拶《あいさつ》に来ただけで、何とも音沙汰《おとさた》がありませんのよ。へえ、百山荘を引払ったというのですか。どこか美容学校へでも入って、美容師になりたいなんていってましたけれど、それじゃあ、きっと男が出来て同棲《どうせい》でも始めたんじゃありませんか。まあ、若い人のことですから、そういう恋愛問題で間違いを起こしたって、どうということもありませんけれど、それならそれで、一言ぐらい、こちらへ断わってくれてもいいじゃありませんか。本当に、近頃《ちかごろ》の若い人は、自分勝手でしかたがありませんわねえ」  と、剣もほろろの応対だった。この点からの追求も、英策は一応あきらめざるを得なかった。こういうことになってしまっては、私立探偵の悲しさで、ちょっと突っ込んでいく術《すべ》もない。  ただ、今の女の態度には、どことなく奇妙なところがあった。何か、今義之という男は、人にはさわられたくないような、秘密を持っているに違いない。その秘密を隠そうとするために、その妻までがあのように、とげとげした態度を取っているのだろう。  こうなれば徹頭徹尾、持久戦でいくほかはない。また持ち出しになるかはしれないが、誰か助手を使って、今義之の動静を探らせるしかほかには方法があるまいと、思案しながら畑の中の道を、駅の方へ向かって歩いて来た時、彼の肩を後ろから叩《たた》いた者があった。  振り返ってみると、年の頃二十一、二の、いかにも水商売らしい女が、ルージュを濃く塗った唇にコケティシュな笑いを浮かべて立っている。 「お嬢さん、何か私に御用ですか?」 「あなたは川村京子さんを探しておいでなんでしょう? あの人にどういう御用がおありなんですか?」  もちろん、この女が千里眼なはずはないから、偶然今義之の家に居合わせて、玄関先の会話を立ち聞きしたのだろうと、そこまでは英策もすぐに推理が出来た。  しかし、その事情はどうにもせよ、川村京子の行方を知っていると思われるこの女の出現は、渡りに舟、少し言葉を誇張すれば地獄に仏というようなものだった。 「実は大変重大な、あるいは人間一人の生死にもかかわるような大事件で、川村さんの行方を探しているのですが、何しろ混み入ったお話ですから、ここではどうも……近くに喫茶店か何かないでしょうか」  英策は一瞬に作戦を決めてしまった。この女が、京子の行方も自分の素姓も明かさずに、そのまま立ち去るような場合の用心のため、どこかの喫茶店へでも誘い、そこへ電話で誰か助手を呼び寄せて、あらためてこの女を尾行させようと考えたのだ。  だが、色浅黒く精悍《せいかん》な英策の男性的な容貌《ようぼう》は、一目でこの女の心を惹《ひ》きつけてしまったらしい。 「そうですの? このあたりには、こういう田舎のことですからお茶を飲むようなところも電車で出かけなければございませんし、わたくしのアパートはすぐそこですから、そちらへ一緒にお出でになりません? 何もおかまいは出来ませんけれど」  と誘ってくれた。  もちろん、これは英策にとっては、願ってもない話だった。  彼はすぐに、この女と肩を並べて、青嵐荘《せいらんそう》というアパートを訪ねたが、女の部屋へ入るか入らないかに壁のベルが鳴った。 「電話のようですわ。ちょっとお待ちになってくださいましね」  女があわてて部屋を出て行った隙《すき》に、英策はそっと二階の窓から外をのぞいて見た。  アパートの前を、右に行き左に行き、こちらの様子をうかがっているらしい男の影があった。二階の窓から見下ろした英策の目と、その男の目とがぱったり合った瞬間に、彼はくるりと向きを変え、電車の線路にそって向うへ去ってしまった。 「はてな、あの男はどこかで見たような顔だが……」  浅黒い、狐《きつね》のような感じがする四十代の男だった。遠くだから、顔の表情ははっきりわからないけれども、この男が二人の跡をつけて来たということはほぼ間違いはなかった。  ——シャロック・ジョン? まさか……  いかに何でも、彼が日本人に化けられるはずはない。その身なりは、どことなく垢抜《あかぬ》けがしていて、外国人などとはたえずつき合っているような臭《にお》いはしたが……  英策はゆっくりあたりを見廻した。壁には映画雑誌か何かから切り抜いたらしい外国のスターたちのポート写真が貼《は》ってあった。部屋の机に積み重なっている本も、映画雑誌や、ミーチャンハーチャン向きの大衆雑誌のたぐいだった。部屋中には何となく安っぽい香水の臭いが漂っているように思われた。たとえば、娼家《しようか》の女の部屋を思い出させるような雰囲気《ふんいき》がどこかにあった。  英策は畳の上に投げっぱなしにしてあるハンドバッグを開いて見た。小さな手帳が目についたので、それを開くと、最後のアドレスの欄に、川村京子の名前が出ていた。  住所も、百山荘のところを消して、第一|清和荘《せいわそう》と書きなおしてある。ニヤリとほくそ笑んだ英策はすぐに手帳をハンドバッグに戻し、何喰わない顔で女の帰りを待った。 「お待たせしました。お紅茶か何か召しあがります?」  女はまもなく帰って来て、愛嬌《あいきよう》たっぷりにいい出した。 「どうぞ、お構いなさらないでください」 「何しろ、こんな所ですから、大してお構いは出来ませんわ。でも、仇《かたき》の家へいらっしゃっても、口だけはしめして帰るのがエチケットじゃございませんかしら」  女の態度には、ある種の商売女だけの持つ、奇妙な媚態《びたい》が溢《あふ》れていた。  たとえば、金で体を切り売りされる女が、その商売の間に、本当に惚《ほ》れ込める相手を見つけて、家庭的な世話女房になったような気分を味わっている、そんな態度がどことなくその全身から感じられた。  紅茶を二つ、テーブルの上にのせると、女はいくらか恥ずかしそうに下を向いて笑った。 「京子さんにはいったいどんな用事がおありですの? どうして今さんの所へお出でになりましたの?」 「その質問は後の方からお答えしましょうか。百山荘というアパートへ訪ねて行ったら、どこへ引越したのか全然見当もつかない。ただ、前の保証人が今さんになっていたものですから、もしや引越し先を御存じではないかと、それをおたずねに上がっただけです」 「それでお探しになる理由は?」 「実は、僕の友人で、ぞっこん京子さんに惚れ込んでいた男がありましてね。ところが、ちょっと社用でアメリカへ行っている間に、あの人が行方不明になったので、何とかしてその行方を探し出してくれないかと依頼があったのですよ」 「まさか! それは嘘《うそ》でございましょう。そんなお話は全然信用できませんわ。アパートの部屋を御存知なくらいなら、個人的な恋愛だったのでしょう? それだったら、引越しても、行先ぐらいはお知らせするはずですし、第一、そういうお方がいたならば、わたくしにもわからないはずはございません」 「個人的な恋愛?」  英策はちょっと眼を光らせた。 「恋愛というものはすべて個人的なものだと思いますけれど、ほかにも何か種類があるんですか? 例えば公的な恋愛だとか、集団的恋愛だとか、そういうものがあるのですかねえ?」 「いいえ……わたくしは別に……そういう意味でいったのではありません。もし、京子さんが、結婚しようとまで考えているような真剣な恋愛だったならば——という意味なのですわ。何も、そういちいち、人の言葉|尻《じり》をつかまえて、揚げ足を取らなくたってよろしいでしょう」 「もちろん、私は弁護士でも検事でもないことですから、人の揚げ足を取って突っこもうなどという料簡《りようけん》は全然持っていないのですよ。ただ、あなたの今のお言葉が、ちょっと気になったものですから」  時のはずみかは知らないけれども、こういう言葉のやりとりの間に、さっきは好意的だった女の態度も、すっかり硬化してしまったようだった。  その眼には、とげとげしい険のようなものが現われた。じっと心を射通すように英策の顔をみつめて、 「それで、あなたのお名前は?」  英策もちょっとためらったが、もう京子の住所を突きとめてしまった今は、下手に隠し立てする必要もないだろうと腹を決めて、 「私立探偵、大前田英策という者です」  と名刺を突きつけた。 「探偵さん?」  女はちょっと動揺したようだった。 「なるほど、それでそういうお仕事を頼まれたんですね。そのお友達のお方というのは、いったい何というお名前です?」 「島川竜太郎《しまかわりゆうたろう》といいます」  英策の愛妻は、もと川島竜子といって、東京でも鳴らした女探偵なのだ。思いつくままにその名前をもじって、勝手な男の名前を作り上げ、ころりと澄ましていると、女はヒステリー気味な笑いを立てた。 「嘘、嘘、嘘ですわ。そんなお方など、この世にありはしませんわ。いや、それはいるかもしれませんけれど、京子さんの恋人だなんてそんな事は……」 「それではあなたは、シャロック・ジョンという外人を御存知ですか?」 「シャロック・ジョン?」 「そうです。ある強盗事件に連座して、指名手配中の外人ですよ。保釈中にアメリカへ逃げ帰ってそこから日本の検察庁を馬鹿にするような手紙を寄こした。警視庁でも検察庁でもカンカンになっているのですけれど、その男がいま日本に潜伏していると思われる節があるものですからね」 「その人が?」 「その男が京子さんの恋人ではなかったかと思いましてね。シャロック・ジョンは、ほかの殺人事件に関係しているのではないかと思われる節もあるのですよ。いや、はっきり申しあげますと、その事件の方を調べている間に、偶然京子さんの名前が浮かんで来たものですから、それでこちらへおたずねにあがったわけなのです」 「それは本当のことでしょうか?」  女は妙におびえていた。 「いや、最初は私も妙なトリックを弄《ろう》しましたが、今度の殺人事件のことは、正真正銘、何のはったりもありませんよ」 「それで、誰が殺されたというのですか?」 「百山荘で、京子さんの隣りの部屋に住んでいた杉浦栄子さんという女の人です。一応、表向きは熱海の錦ガ浦から投身して自殺したということになっている。警察でも、別にそのことについては疑問も起こさなかったようですが、これがシャロック・ジョンの犯行だと思われる節もあるものですから」  女の顔は一層暗くなってしまった。胸にこみあげて来る、何か知れない激情を、必死におさえようとしているようだった。 「でたらめ……みんなでたらめですね。あなたのおっしゃる事は」  一、二分して、女は吐き出すようにいった。 「京子さんだって、外人とお付合いがなかったとはいえませんけれど、シャロック・ジョンだなんて札付きの不良外人を、自分のアパートへ引っ張り込むような、そんな甘い性格じゃございませんわ」  女は立ちあがってドアを開くと、 「お帰り下さい」  と冷たくいった。  これが普通の男なら、こうして女に腹を立てられては、おとなしく引きあげるところだろうが、大前田英策はあぐらを崩そうともせず、新しい煙草《たばこ》に火をつけた。 「あなたは耳が遠いんですか。私のいうことが聞こえませんの?」  女はこっちへ振り返って、きっと眉毛《まゆげ》をつりあげた。 「僕がこの場を立たなかったら、大きな声を立てて人を呼ぶとおっしゃるのですね。よろしい。おやんなさい」 「あなたは!」 「別に不法にこの部屋へ侵入したのでもありませんし、ことが公けになったならば、お困りになるのはかえってあなたの方じゃありませんか」 「私が、何か後暗いことでもしているとおっしゃるのですか?」 「それは見解にもよりけりでしょうが、あなた方のしていることが、明るみに出たとしたならば、やっぱり名誉なことでもありますまい」  一、二分、冷たい睨《にら》み合いが続いた。  だが、男と女、しかも武道の達人である英策を相手にしては、この勝負は初めからわかっていた。  女はドアを閉めると、もう一度部屋の中へ帰って来た。 「あなたは、わたしをいじめて、いったいどうなさるおつもりなんです? 何か欲しいとおっしゃるのですか?」 「私は真相を知りたいと望むだけです。すべての真相、私の眼に触れるかぎりの秘密の奥を知りたいのですよ」 「では?」 「あなたのお名前とお仕事は?」 「久保田悦子《くぼたえつこ》と申します。仕事の方は、申しあげる筋合いでもございますまい。それこそ恋愛は自由ですわ」 「なるほど、恋愛というものは個人的な、すこぶる自由なものですからね。ただ、一人の男を相手にするのと、不確定多数の人間を次々に相手にしていくのとでは、自ら問題は異なりましょう」 「…………」 「あなたは、僕をとんだ所へ誘い込んだ。まあ、こっちにしてみれば天佑《てんゆう》神助ともいえましょうがね。失礼ながら、あなたのさっきの眼は奇妙な情欲に燃えていた。自惚《うぬぼ》れのようかもしれませんが、まるでこっちに一目惚れしたような感じだった。とかく、金で体を切り売りしていたような女は、一旦《いつたん》これという相手を見そめると、とたんに血道をあげるものです。いや、これはあなたのことをいっているのではなく、一般的な原則ですが」  およそ、女性に対しては最大限の侮辱に近いこういう言葉を投げつけられても、女があえて反撃しようとしなかったのは、この前哨《ぜんしよう》戦ともいうべき会話で、徹底的に打ちのめされていたせいだろう。 「先生……」 「僕は今、ふいと思ったのです。あるいは、あなた方はいわゆるコールガール——電話一本で駈《か》けつけ、男の相手をつとめるような種類ではないかと。今義之という人物は、そういう客を集めて来るボスのような存在ではないかと、ふいと思ったんですが」 「そんなこと!」 「いや、あなたが個人的な恋愛——といったのがその推理の根拠だったのですよ。個人的な恋愛に対応するのは、職業的な恋愛でしょうし、そういう相手がいたならば、自分のアパートを知らせるだろうということは、裏がえしにして考えると、普通の場合に自分の住居を明かさないということにもなりますからね。殊に京子さんの場合には、夕方になるとかならず決まって男の声で、電話がかかって来たともいいますし、それで出かけて外泊して来る——となると、これはただの関係とは思えない。しかし決まった相手なら、向うが女のアパートへ訪ねて来ればすむことだ。そういうことまで考えて、今の推理を出したのですがね」  相手ははじかれたように顔をあげた。 「先生、それで先生は今のことを警察かどこかへお知らせになるおつもりですか?」 「それもあなた方の出様《でよう》一つですな。僕は何も修身の先生ではないことだし、売春制度の讚美者でもない。といって、社会党の婦人代議士のように、修身的な廃止論者にもなりきれない。いわば、一種の必要悪——とでも解釈しているのですから、あなた方が、それ以外生活の道もないのだとおっしゃるのなら、あえて摘発しようとも思いませんがね。ただ、栄子さんの事件の方の、シャロック・ジョンの方は、このままにはしておけない。あなたが僕の調査に協力してくれるとおっしゃるなら、なるほど、この事件は忘れてしまいましょう。ただ、あくまで逃げを打たれるなら、やむを得ず、警察へこの事を報告して、その力で一切の組織を根こそぎにするしか方法がありますまいね」  女はちょっとためらっていた。 「先生、それでは、私が京子さんの身の廻りを探って、そのシャロック・ジョンはどこにいるか確かめて参りますわ。そうしたら、すぐ先生の方へお知らせいたしますけれど、それではいけませんでしょうか?」  相手の言葉は、かならずしも逃げ口上だとは思えなかった。ここまで急所をおさえていれば、後は相手の動きにまかせ、それを追って行くのも一つの方法だろうと考えて、大前田英策は、 「それでは、四日間、あなたの自由にしてみてください」  とうなずいてみた。     三  この女の名前が久保田悦子だということと、やはりその保証人が今義之になっているということを、管理人室で確かめると、英策は一旦事務所へひっ返した。  これで一応捜査の荒筋は出来上がったことだし、実はほかにも急ぎの調査があったので、英策は助手の野々宮《ののみや》に第二段の仕事をまかせることにした。 「なるほど、コールガールというと、話にだけは聞いていましたけれど、お眼にかかるのは今度が初めてですね」  野々宮は年も若いことだから、この事件にはすっかり興味を起こしたらしい。 「都心で自家用車をとめていると、よく名刺が窓にはさんであるそうですよ。美人の相手が欲しければ、何時から何時までここへ連絡してくれといって、電話番号と名前だけ印刷した名刺がはさんであるそうですね。もちろん、その電話は、喫茶店か何かの番号だろうし、そこへ連絡すると、そのボスが待っていて、ポケットから写真を出して見せ、気に入った相手がいると、電話でまたその店へ呼び寄せるのだそうですね。だから、呼び出される女の方も、電話のついているアパートに住んでいなければ、商売にはならないのでしょうけれども。いやはや、売春制度廃止などということになると、いろいろな新手珍手が飛び出すものですね」 「人間の心というものは、残念ながらそういうものだ。一方では法律で人をしばろうとすると、一方では、何とかしてその法の盲点を突こうというそういう反動が現われる。追いつ追われつ、永遠の追いかけごっこを繰り返すもんだよ」  英策はさとり澄ましたように笑った。 「とにかく、そういうわけで、京子が今どこに住んでいるかだけはわかった。電話帳を見れば、その第一清和荘というアパートの住所もわかるだろう。これをこのまま、依頼者の方へ知らせてやっても、こっちの責任はすむわけだが、シャロック・ジョンのこともあるから、一応本人に間違いないということだけは確認しておこう。第二段の仕事は根気仕事だから君にまかせるよ。もし事態がこれ以上発展するようだったら、また僕が乗り出すけれどね」  英策は自信たっぷりに笑った。  第一清和荘というのは、新大久保の近くにあった。そこを偵察した結果、確かに川村京子と思われる女が、川野《かわの》くるみと名前を変えて住んでいることがわかった。ただ、野々宮が相当根気よく張り込んだのに、なかなか女とは接触出来なかった。  もちろん、英策も全面的に彼だけにまかせておいたわけではない。ほかの助手を使って、今義之の動静を探らせた結果、彼が毎晩新宿の『黒薔薇《くろばら》』という電話喫茶のボックスに坐って、営業を続けていることがわかった。鴨《かも》の男がやって来るたびに、商談と見せかけて、ポケットから写真を取り出し、商談がまとまると電話で女を呼び寄せて、料金を受け取り、それから二人を突っ放してやるという商法だった。英策も助手から電話で呼び出されて、その男を再確認したが、それはあの時久保田悦子のアパートの前をうろうろしていた男に違いなかった。  これで一応、コールガールの組織の実体はつかめたわけだが、下手にここで騒いだのでは、大魚を逃す恐れもある。網を手元にしぼったまま、英策はただじっと警戒を続けていた。 「どうも川村京子のようですよ。まさか、先生が住所を嗅《か》ぎつけられたことに気がついて、ずらかってしまったわけでもないでしょうが」  三日目に、野々宮がこういう音《ね》をあげだしたのを聞いて、大前田英策は、 「なるほどな。それでは僕も今夜仙台へ出かけなくっちゃいけないから、一応このあたりで中間報告だけでもしておこうか」  といって、それから藤間章男の会社を訪ね、簡単にこのことを報告した。 「なるほど、そういう女だったんですか? ずいぶんお早い調査でしたな」  藤間章男は感心したようにいって、規定以上の料金を払ってくれた。 「それで、先生。第二段の調査はお願い出来ましょうか? つまり、彼女を探し出すまでのが第一段の調査なら、この女が、乃至《ないし》はその陰に潜んでいるシャロック・ジョンが栄子を殺したかどうかを確かめることが第二段の調査です」 「女を——川村京子を捕捉《ほそく》出来さえすれば、それも何とかなるでしょう。コールガールなどという商売をしているのでは、人眼を憚《はば》かる理由もわからないではありませんが、それでは何故《なぜ》、杉浦さんの死んだ直後、逃げ出すようにアパートを引き払ったのか、それが大いに不思議ですね。何か心にやましいことがなかったら、そういうこともしないでしょうが……ただ、僕はちょっと仙台に用事があって、今晩遅く出かけなくっちゃなりませんから、帰り次第、またこっちの事件に取りかかることにしましょう」 「仙台には長くおいでなのですか?」 「そうですね。まあ行ってみなければわかりませんけれど、まる二日もすればすむと思います。事情によっては、あと一日ぐらいは延長戦になるかも知れませんけれど」 「それでは一日も早くお帰りになるようにお祈りしています。それまでは?」 「いや、助手も大勢居ることですし、そのうちから有能な人間を二人、喰い下がらせていますから私が帰って来ないうちに、何か探り出しているかも知れません。まあ、ここまで来たら長期戦で、あんまりおあせりにならない方がいいでしょう」  英策はこういって一旦事務所へ引き返すと、こまごまとした用事を片付け、遅い夜行で仙台へ向かった。  そっちの仕事を大車輪で片付けると、彼は四日目の夕方東京へ引き返して来た。  どうせボストン一つの軽装だから、上野へ着くとそのまま近くの喫茶店へ飛び込み、コーヒーを飲みながら夕刊に目を通したが、ある記事に気がついて愕然《がくぜん》としてしまった。  女が、小田急線の和泉多摩川《いずみたまがわ》付近の線路で、夜遅く轢死《れきし》したという記事だった。警視庁では覚悟の自殺と推定している——と書いてあったが、英策はそういう形式的な発表には惑わされなかった。  世田谷赤堤町青嵐荘内、久保田悦子。  確かにあの女——あの女だった。  今義之の組織の中のコールガールの一人、川村京子の友達、そして英策にシャロック・ジョンの行方を突き止めるように約束したこの女が、こうして奇怪な最後をとげるとは……。  これは果たして自殺なのだろうか? 杉浦栄子の熱海での最後とも関係を持った殺人事件ではなかろうか?  英策はそれから五、六分、眼を閉じて考え込んだ。その決心はすぐに決まった。彼はすぐ警視庁へ電話をかけ、松隈警部補を呼び出した。 「おや、仙台へ行っていたはずなのに、もうお帰りかい? いったい松島は見て来たのかね?」  警部補は例によってからかうような調子でたずねた。 「あいにく、遊山《ゆさん》旅行じゃないんだよ」 「おや、結婚しても新婚旅行などしたという話は聞かなかったから、今あらためてやっているのかと思っていたよ」 「あいにくだね。実はあんたに聞きたいことがある。昨夜の和泉多摩川の轢死事件だが……」 「おやまあ、お帰り早々、お耳が早いことだ。あの女について、何か知っていることでもあるのかい?」 「もしかしたら、殺しじゃないかと思ってね。いま逃走中の例の外人、シャロック・ジョンと関係のある……」  松隈警部補の声の調子は、とたんにがらりと変わってしまった。 「どうして、どうして、あんたはどうしてそんな事を知っているんだ!」 「ちょっと、ほかの事件を扱っているうちに、その名前が飛び出したんでね」 「とにかく、お互いに電話では話も出来ないだろう。そっちはいま上野駅か? もし差支えがなかったらこれから警視庁まで来てくれないか?」     四  確かに電話では、これ以上詳しい話も出来なかった。英策はそれからすぐに身を翻《ひるがえ》して、警視庁へ松隈警部補を訪ねて行った。警部補は眼をつぶり、うんうんとうなずきながら、英策の話を聞いていたが、 「なるほどな。こちらの調べでも、どうせ高級|娼婦《しようふ》のたぐいだろうとは思っていたが、そういう闇《やみ》の組織に属しているメンバーだとは思わなかったよ。有難う。本当にいい話を聞かせて貰《もら》った」 「それでは、そのお返しに、今度の事件のことを聞かせて貰おうじゃないか?」 「おや、そっちの仕事は、これで一応終わったはずじゃないのかい?」  とはいったものの、警部補の方も、やはり話を聞きっ放しでは、精神的な負担を感じるのか、 「いや、実際のところは新聞に出ている以上の事はないんだよ。もちろん、自殺か他殺かは未だはっきりしない点もあるから、一応調査は進めているが」 「でも、シャロック・ジョンの一件は?」 「ははははは」  松隈警部補は珍しく腹をゆすって笑った。 「大前田先生、今度はちょっと勘ぐりすぎたな。それはあんたの方からいい出したんだぜ。こっちからその名前を持ち出した覚えはないよ。なるほど、いま話してくれたような先入観があったものだから、こっちの活動を買い被《かぶ》ったんだろうが、実は、彼がこの事件に関係しているかも知れないと聞いたのは、あんたの今度の話が最初さ」  大前田英策も思わず苦笑いして、 「これはまた、えらい所でとんだサービスをしたものだな。もっとも、こちらは調査料をほかから頂いていることだから、まあ番茶の出がらしみたいなニュースだけれど、ははは、犯罪捜査に協力するのは、善良なる市民にとっては当然の義務だから、今更愚痴もこぼさないがね」 「まあ、悪く思わないでくれたまえ。もともと僕のように警察畑の人間は、どういう細かい手掛かりでも、見逃したり、聞き逃したりするわけにはゆかないのだよ。まして、大前田先生ともあろうお方が、シャロック・ジョンの話を持ち出したら、こっちもぎくりとせざるを得ないじゃないか。まあ魚心に水心で、今度何かそっちの役に立つようなことがあったら、協力するから、それで貸しと借りを帳消しにしてくれたまえ」 「ここのところ、ずっと貸方に廻っているようだが、有為転変《ういてんぺん》は世の習い、そういう際には是非頼むよ。それでは、これからどういうことになるか知れないけれども、僕は僕なりの調査を進めるからね」  英策は男らしく笑って、警部補に暇《いとま》を告げ、警視庁を出た。  事件がこういう段階にまで進んで来ては、もう個人としての仕事よりも、警察の機動力、組織力にまかせた方が無難のようだった。  途中で一旦事務所へ寄って、その後の捜査の調子を聞いてみたが、全然これという進展もなかったことだし、これから第三段の調査を進めるとしても、まず家へ帰っておこうと思って、英策はそのまま帰途についた。  だが、電車の駅を降りた時から、彼は何となく不気味な殺気を感じ始めた。  もちろん、これとはっきり原因が説明出来るわけではない。柔道、合気道《あいきどう》、空手《からて》など、いろいろなスポーツや武道でたたきあげた、勝負師的な運動感覚が、まるで動物の予知本能のように、この時彼に何かの危険をささやいていたのであろう。  だが英策はひるまなかった。駅を出ると、いつものゆっくりとした足取りで、家の方へ暗い夜道をたどり始めた。  彼が林の中へ入って来た時、その殺気はとたんにずっと厳しくなって来た。  十二、三歩あるいた時、英策は素早く自分からパッと地上へ倒れた。確かに、その時後ろの方から放たれた弾丸が、ピューンと彼の頭上をかすめて過ぎたのだ。  ——畜生、やはり、この林の中で待ち伏せしていやがったな。  とつぶやきながら、彼の相手の再度の襲撃を待った。こっちが大業《おおわざ》をかけるためには、敵がわざを施して来た瞬間を狙《ねら》わなければ決まらないというのは、勝負道の根本原則なのだ。  それなのに、敵はせまって来る様子もなかった。一撃でとどめを刺したと思ったのか、これ以上深追いしては、かえって自分の身が危いとでも思ったのか、殺気もたちまち遠ざかり、そして、間もなく林の向うから自動車のスタートする音が聞こえて来た。  英策も苦笑いしながら、服の埃《ほこり》を払って立ちあがった。この車を追いかけてみたところで、追いつけるはずがない。番号さえわかるとは思えなかった。それから家へ帰り着くまでには別に変わった事もなかった。  家では新妻の竜子が嬉《うれ》しそうに彼を迎えた。前には美貌《びぼう》と才智とで有名だった女探偵だが、肉弾特攻的な英策の求婚の前に屈服してからは、思ったよりいい奥様になって、家庭におさまっている。 「おかえんなさい。時間を知らせてくれれば、駅まで迎えに行ったのに」 「ははははは、こっちは気軽にどんな所へでも飛ばなければいけない商売だ。これがアメリカから帰って来たというのならばともかく、たかが仙台ぐらいへ行ってきたのに、いちいち見送りだの出迎えだのはいらないよ」  妻に心配させてはまずいと思ったので、英策は今の襲撃のことは一言もいわなかった。 「それで何か、急な用事はなかったかい?」 「川村京子さんという女の方から、電話がかかって来ましたわ。あなたが、たいてい今晩帰るだろうと話したら、是非出かけて来て欲しい。大変重大な用件だといっていましたわ。もしあなたがお帰りにならないようだったら、わたしがかわりに出かけようかと思ったくらいです」 「それで、その指定の場所は?」  英策は口にくわえていた煙草が、畳の上に落ちたのも気がつかなかったくらい、興奮していた。  竜子はそれをそっと拾って、灰皿の上へのせると、 「新宿のセーヌという深夜喫茶の二階で、十一時から十二時までの間お待ちしているといっていました。お互いに顔はわからないから、こっちの方が目じるしに、ピースの缶《かん》をテーブルの上に置いて欲しいといっていました」  竜子はそっと英策の顔を見上げて、 「川村京子といえば、例の、シャロック・ジョンの恋人でしょう? あなたがあれほど探しても見つからなかったのに、むこうから突然、電話をかけて呼び出してくれるというのは、どういうわけでしょうか?」 「わからないね、本人に会ってみなければ。そんな男とは知らずに相手にしたものの、だんだんむこうの素姓がわかるにつれて、こわくなったのかも知れないな」  英策は笑って自分の部屋へ帰ると、そこからまた、電話で松隈警部補を呼び出した。 「大前田さん、せっかくいい事を教えて貰ったのはいいけれども、あいにく敵はつかまらなかった」 「敵というと?」 「例のコールガールの親玉、今義之という男さ。すぐに刑事をやったんだけれど、二日前から飛び出してしまって、どこへ行ったか行先もわからないようだよ。まあ、細君だけをつかまえて来て、いま取りしらべを続けているから、その組織の実体がはっきりするのは、もう時間の問題だろうけれどもね」 「なるほどな。久保田悦子が死んだので、自分の仕事の秘密も発覚するのではないかと思って逃げ出したというのも一説だが、ほかの考え方もないではないな。彼がそれ以上の罪を犯していたという見方だ」 「それは?」 「もちろん、相手が彼かどうかはわからないけれどもね。実はいま家へ帰って来る途中に、ピストルで狙い撃ちされたんだよ。自家用車らしい車を林の向うにとめて、先廻りしていたんだね。はははは、こっちは武道のおぼえがあるから、間《かん》一髪でまぬかれたが」 「そうか。そんな事件があったのか。まあ何しろ無事でよかった。あんたにここで死なれちゃあ、せっかくの喧嘩《けんか》相手がなくなるからな」  松隈警部補はいくらか茶化しているようにいったが、すぐまた緊張した調子にかえって、 「とにかく事件は殺人未遂だ。すぐ、警察から人をやるから、その現場へ案内してくれたまえ」 「それは明日のことにしようよ」 「なぜだ? 警察の仕事には協力しないのかね?」 「いま散々サービスしたばかりじゃないか。僕はこれから、また出なおさなければいけないんだよ。川村京子という女をつかまえる為《ため》にね」 「彼女はいったいどこにいるんだ?」 「おっとどっこい、その手は二度と喰わないよ。今度はこっちの営業上の秘密だ」  英策は笑って電話を切ると、再び茶の間へ戻って、竜子に、 「仕事だ。出かけてくる」  ときっぱりいった。     五  確かにこっちが探している間は、影も見せずに逃げ廻っていたこの女が、むこうから英策を呼び出してくるというのは、ただごととも思われないことだった。  もちろん、それは久保田悦子の怪死とも、今夜の怪人の襲撃とも、何かの関係を持っているのだろう。  あるいはまた、何かの罠《わな》が仕掛けてあるのかも知れないが、こういう場合に後へ引くということは、大前田流の兵法にはないのだった。  竜子はちょっとうらめしそうだったが、仕事の方には理解もあるし、快く彼を出してくれた。  英策はすぐに新宿へ駈《か》けつけて、ホテルの風呂《ふろ》で旅の汚れを落とし、それから指定の喫茶店まで出かけた。  松隈警部補に、この事を知らせなかったのも、あまりこの店を警戒しすぎては、相手が尻込みしても困ると思った為だし、わざと缶詰のビールなどを注文したのも、下手なところで毒を飲まされたりしてはかなわないと考えた為だったが、案ずるよりも産むが早く、十一時十五分頃、一人の女が彼のテーブルに近づいて来た。 「大前田先生?」 「川村京子さん?」  京子はうなずいて、英策の向かいの椅子に腰をおろした。 「何を召し上がります?」 「ジンフィズでも頂きましょう」  ボーイがその場を立ち去ると、京子はゆっくり煙草に火をつけた。 「さて、僕に今夜はどういう御用ですかな」 「先生こそ、わたくしを探していらっしゃったんでしょう。いったい、どんな御用事でしたの?」  二人共言葉は丁寧だったが、まるで白刃で斬《き》り結ぶような凄気《せいき》のまじった会話だった。  英策はさそいの隙《すき》を見せるように笑って、 「こちらは私立探偵という商売柄、依頼があればたいていの用事は勤めますよ」 「それもお金の為なのでございましょう。こちらでそれ以上のお礼を差しあげたら、最初の依頼者のお方のことは忘れて頂けますか」 「僕に一時的な健忘症になれとおっしゃるのですね? 他の言葉でいえば買収ということですな。ははははは、他の探偵さんなら知りませんが、大前田英策という人間には、ちょっと通用しない戦法ですよ。いかに溝《どぶ》さらいと自認していても、溝さらいには溝さらいの信念がある。金のために操は売らないのです」  金のために体を切り売りしている女にとっては、これは痛烈な皮肉に思われたかも知れない。京子の眼はちょっと血走った。 「仮にもし僕にそういう意志があったとしても、もう手遅れかも知れませんよ。実は今日、仙台から帰って来て、夕刊であなたのお友達の久保田悦子さんが死んだことを読んだので、その足で上野駅から警視庁へ寄って、一切のことをぶちまけてしまったんです。ですから、今までのことは、私立探偵としての僕の営業的な調査だったとしても、結果論としては、警視庁の方で捜査を進めたのと、同じ効果を発揮することになりましてね」 「警視庁に?」  京子は愕然《がくぜん》としたようだった。テーブルの上にのせた手を通して、全身の戦慄《せんりつ》が、缶詰のビールにまで伝わっていた。 「あなたにやましいところがなかったら、警視庁という言葉を聞いても、何もそんなに震え上がる必要もないわけでしょう。いや、杉浦栄子さんが死んだ後で、すぐアパートを引き払う必要もなかったことでしょう。今義之氏が、姿をくらます必要もなければ、誰の仕業か知れないけれども、僕を今晩、ピストルで撃ち殺そうという必要もなかったでしょう」 「わたくしが、先生を、ピストルで?」  京子は大きく眼をみはり、救いを求めるように喘《あえ》ぎ続けた。 「先生、それは、わたくしには、全然覚えもないことです。誤解、全部先生の誤解ですわ」 「なるほどね。錦ガ浦から飛び降りたり、電車に轢《ひ》かれて死んだりするのは、実際問題として自殺か他殺か、判断も難しいことですから、誤解も誤認もあり得るでしょうが、夜自分の家へ帰ろうとして、道を歩いている時に、林の中からうたれるのでは、誤解の余地もありますまい」  英策は冷たくつっぱなすように、 「さあ、シャロック・ジョンはどこにいるのです。彼のところへ案内しますか。それともいっしょに警察へ自首して出ますか?」  京子は咄嗟《とつさ》に、ある決心をきめたようだ。 「シャロック・ジョンなんて知りませんわ。悦子さんからそのことを聞いた時には、世の中にはとんでもない嘘《うそ》をつく人もあるものだ——と思ったくらいです」 「ほんとうに彼を知らないというのですか」 「わたくしの申しあげることが、嘘だとお考えになったら、御一緒に警視庁まで参りましょう。べつに恐がったりなどしていませんわ」  英策は一瞬ためらった。京子がどうして、こういう反撃の体勢に出て来たのか、理解も出来なかったのだ。だが、その言葉なり態度なりには、異常なくらいの真剣さがみなぎっている。 「それでは、あなたはどうして逃げ廻っていたのですか?」 「わたくしのような商売をしていると、ある時にはそういう必要もあるものです。先生、二十万円で手を打って下さいませんか?」 「何の手を打とうとおっしゃるのです」  まるで猫の眼のように、千変万化する女の態度に、英策も業《ごう》をにやしてしまった。 「失礼ですけれども、あなた方のような御商売で、二十万の金をつくるというのは容易なことではないでしょう? その金を、気前よくぽんと僕の前に投げ出して、どうしろというのです」 「先生に、味方になっていただきたいと思うだけですわ」 「僕はいつでも、正しい者、弱い者の味方になろうと思っていますよ。ただ、そういう人たちは、たいていお金には縁がないようですがね。まあ、たまには例外もないとはいい切れませんが」  京子は捨鉢《すてばち》になったように、上をむいてしきりに煙草の煙を吐き出していた。 「あなたの顔を見ていると、どうもその二十万というお金は、不正な性質で手に入れるお金のようですな。たとえば僕は今こんなことを考えました。あなたが仮に、誰かの死命を制するような秘密を握っているとして、それを種に、五十万か百万の金をゆすろうとする。ただ、金を受け取るまでに自分の命がなくなった日には、それこそ元も子もない話だから、その何割かの手数料を払って、僕に護衛の役をつとめさせようと考えているんじゃありませんか?」  この一言は、匕首《あいくち》のように鋭く、相手の胸をえぐったらしい。京子は灰皿にたたきつけるようにして、長い煙草をもみ消した。 「どうしてそんな、そんな!」  英策は大きく溜息をついて、 「そこまでいわなきゃいけないんですか。死んだ悦子さんも、誰から聞いたかはべつとして、恐らくあなたと同じ秘密を知っていた——と思うからですよ。それを材料に、相手をゆすろうとして殺された。前の車がひっくりかえるのを見たら、後の車も気をつけなければならないというのは、千古不易の格言なのに、人間というものはともすると、その真理を忘れがちになるものです。それもあいつはあいつ、自分だけは巧《うま》くやりぬけるだろう——という自惚《うぬぼ》れからですね。もっとも、そういう心が起こるのも、結局は自分の煩悩《ぼんのう》のなせるわざでしょう。色や欲、そういう末梢《まつしよう》的な欲望にとらわれるということが、結局は人間に道をふみあやまらせるものなのですがね」  今日の英策は、いつもよりずっと言葉の調子がやさしかった。これがかえって、こういう種類の女に対しては、ききめがあったのかも知れない。むなしくかわいていた女の眼に、いつか涙の露が浮かんできたのが、その心の動揺をはっきり物語る証拠だった。 「この前も、僕は同じような事件を引き受けましたよ。刑務所から出て来たある男が、別な男の犯罪のしっぽをつかんでいて、それを種にゆすろうとしたのですね。そのために奇妙な封筒をあずけておいて万一の場合には、仇《かたき》をとってくれるようにしておいたのですね。なんとか仇討ちだけは果たしましたが、その前にその依頼者は殺されてしまった。もし彼がそういう悪心を起こさないで、まともな仕事についていれば、まだまだ死にはしなかったでしょうが。自分の足もとだけをみつめることをやめて、ちょっと空をあおいでごらんなさい。空は青く太陽は明るい。人間というものは何度溝の中へ落ち込んでも、あがって来たらやっぱり上をむいて歩くのが本当だと思いますがね」  自分では、たかが溝さらいだと自称しているが、やはり英策は彼なりの、悟りと人生観を持っている。  飾らずてらわないその言葉が、なんとなく京子の胸に響いて来たようだった。 「こういうところで、これ以上お話しするのも何ですから、僕の家まで行きませんか」  英策の言葉にうなずいて、京子は魂のぬけがらのような恰好《かつこう》で立ち上がった。  二人はそれからすぐに、車を飛ばして家へ帰って来た。 「お客さんだよ。川村京子さんという」  竜子はべつに顔色も変えなかった。そこは夫婦の間柄だから、英策の考えていることもすぐに察してしまったらしい。 「あれから何か電話はなかったかい?」 「藤間さんから、あなたが仙台からお帰りになったかどうかをたずねて来ました。明日またお電話をするそうです」  英策はじっと京子の顔をみつめて、 「藤間章男——といえばあなたも御存知でしょうね。百山荘というアパートで、あなたの隣りに住んでいた杉浦栄子さんの恋人ですよ。この人が、僕にあなたを探しだしてもらいたいと頼んで来た依頼者なんですがねえ」     六  その翌日の夜のこと、事務所のひけぎわに、藤間章男は緊張した顔色で、英策のところへ訪ねて来た。 「あの女が、川村京子が見つかったそうですね?」 「そうです。さっきお電話をしたように、昨夜ある場所から探し出して来ました。そのまま警視庁へ連れて行っても、こっちの役目は終わるわけですが、あなたからもああいうお話があったことだし、僕にもちょっと考えがあったので、家へ連れて行きました。その方がいろいろと収穫があると思ったものですからねえ」 「それで、何か収穫はありましたか?」 「ええ、いろいろとね」  英策は軽い笑いを口唇のあたりに浮かべて、 「今度の調査料は、大いにはずんでもらわなければいけないようですな」 「私に出来るだけのことはさせていただきますが、ただ、栄子の死んだ真相はわかりましたでしょうか?」  英策はゆっくりと立ち上がって、壁の戸棚へ近づくと、とたんにピストルをぬき出してふり返った。 「両手を上げていただきましょうか?」  藤間章男は飛び上がった。  血走った眼で英策の顔をにらみつけ、 「何を……何を、貴様は血迷って!」 「べつに血迷っているわけではないよ。昨夜のように、またしても、暗闇から、ピストルで狙いうちされてはたまらないと思ってね。どうも、そっちの上着のポケットには、何かかさばったものが入っているらしいな。それはまさか万年筆じゃないだろうな?」  藤間章男はたらたら、額から脂汗をにじませていた。 「いったい、それは何の話だ。僕にはさっぱりわけがわからない……」 「わからねえ? それじゃあわかるように話してやろうか」  英策はとたんに鉄火な調子になって、 「あの女は、誰かからたんまりゆするつもりだったらしい。俺《おれ》に味方になってくれれば、二十万払うといったくらいだから、源泉課税が一割余として、相手にふっかけた金額も、まず百万というところだろうか——自分の体を売ってまで、生きてゆこうという女にとっては、ちょっとやそっとじゃ手に入らねえ金額だ」 「それが、それが僕とどういう関係がある!」  英策は相手の狼狽《ろうばい》をせせら笑うように、 「ゆすりの相手が貴様だからだ。貴様はあの女に何かの弱味を握られていた……自分の命にもかかわるような、秘密をつかまれてゆすられた以上、骨の髄までしぼられる覚悟をきめるか、それとも毒を喰《くら》わば皿までと覚悟をするか、何もかも捨てて逃げ出すか、三つに一つしか道はねえ。俺に、女を探せ——と頼んで来たのも、探し出した女に止《とど》めを刺して、後くされをなくしようという高等作戦じゃなかったのか?」 「…………」 「だがあの女は、あれでなかなか利口者だからな。話が一応まとまってからでも、自分は正面には出ねえで、まずあの久保田悦子という友達を、お前のところにさしむけたんだろう。そいつを料理してしまってから、初めて別人だと気がついたのか、それとも自分の秘密を知っている者は、男も女も、誰彼の差別もなく、殺してしまおうと考えたのか、昨夜、上野から俺が警視庁へ直行したことを知って、うち殺そうとしたところをみると、どうやら、後の推理の方があたっているようだな」 「…………」 「人を殺してまで、守り通さなきゃならねえ秘密というものは、そんじょそこらにあるもんじゃねえ。杉浦栄子さんを殺したのも、どうやら手前自身の細工らしいな。どこで殺したかは別だが、錦ガ浦のとっ鼻には、最近ホテルが出来たからな。お客と熱海まで遠出して、ホテルに泊ったあの女が、寝つけないので散歩に出かけ、その現場を目撃したというのが、手前の運のつきだった」  藤間章男は何とも答えなかった。  ただ、その右手が虫のはうような速度で、自然自然に、上着のポケットの方へはい寄っていたのが無言の肯定、雄弁な動作だったろう。 「それにしても、シャロック・ジョンとは、うまい人間を持ち出したものだな。日本にいるかいないかもわからぬ。それを目撃したという栄子さんも死んでしまっている。これで京子が死んでくれたら、いや久保田悦子の殺害までひっくるめて、自分の罪は一つ残らず、この男になすりつけられると思ったんだろうが」  英策は相手をはね飛ばすような調子で、 「うたねえのか? 俺がこうして、ピストルをかまえて立っているのをどう思うんだ? 話の途中で、俺が気違いのようになって、自分にピストルをむけたから、偶然机の上に置いてあった、別のピストルで抵抗したというならば、当然正当防衛は成り立つぞ。ただそれは俺を一発でうち殺す自信があっての上の話だが」  まるで真剣勝負のような、烈々たる英策の気魄《きはく》におされてしまったのか、藤間章男は、化石のように微動もしなくなってしまった。英策はそのそばへ近づくと、相手のポケットからピストルをぬき出し、 「この勝負は、にらみ倒しで俺の勝ちか?」  といって笑った。 「おかげさまで、また大きな魚を一匹捕えてもらったねえ」  その翌日、英策のところを訪ねて来た松隈警部補はにこにこしていた。 「やつは、大変な金持の娘に見こまれたらしいんだよ。それで杉浦栄子の方へ、別れ話を持ち出したところ、女はどうしても承知しない。死ぬの、殺すの、その女のところへ自分が訪ねて行って、一切をぶちまけるの、どんな手段に訴えても、結婚式は妨害してやるの——などと騒ぎ出したんでついカッとなってやってしまったといっている。死体はそのまま、自動車へ乗せて熱海まで運び、錦ガ浦の崖《がけ》の上から突き落としたというんだ。支離滅裂で、矛盾《むじゆん》だらけの説明だが、むこうも今日は興奮していることだし、くわしい正確なことがわかるには、もう二、三日かかるだろうな」 「彼のその話にしたところで、真相とはあんまりへだたってもいないだろうよ」  英策は軽く笑いながら、 「こういうと、お前も年をとったなと笑われそうだが、全くこの頃の殺人は、つまらない動機から起こるものだ。ところで、あんたに一つお願いがある」 「お願いとは何だい」  警部補はちょっと心配そうだった。 「せっかく大きな魚を一匹つかまえさせてあげたんだから、その代わりに、雑魚《ざこ》の方を見逃してやってほしいんだよ」 「雑魚というと?」 「あの京子という女だが」 「あれか」  警部はちょっと躊躇《ちゆうちよ》していたが、英策は追討ちをかけるように、 「昨日一日、家の女房からいい聞かされて、彼女もずいぶん心境に変化を来たしたらしい。まあ、厳密にいえば、久保田悦子が殺されたのも、彼女に責任があることだし、恐喝罪も成立することだろうが、この際罪人はあんまり出さない方がよかろうと思ってね」 「あんたは案外人情家だな」 「べつに浪花節《なにわぶし》的な感傷に溺《おぼ》れているわけではないが、僕の知っている判事に、初犯の判決はえらく軽くするのがいてね。ただ再犯となると、それこそ遠慮会釈もないんだ。すべて人間というものは、誰でも過失や浅慮から罪をおかすことはあり得るものなのだし、最初の一度は、出来るだけ更生のチャンスを与えてやるべきだというんだよ。救うに救えない罪人と、更生出来る人間との違いはその後にあらわれる。僕は、あの京子という女は、必ず泥沼から浮かび上がれる女だとそう思ったのだ」 「それでは一つ、今度のお礼に、あんたと奥さんと、その名判事との顔をたてようかな」  松隈警部補は、明るい顔で大きく笑った。 角川文庫『顔のない女』昭和60年11月10日初版発行